Chicago Shimpo
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ゴジラの祭典“G-FEST”
宝田明さん、ゴジラを通じて
平和を説く

 ゴジラや怪獣ファンの祭典“G-FEST”が7月15日から17日までの3日間、ローズモントにあるクラウン・プラザ・ホテルで開催され、世界からファンが結集した。
今年で23回目の開催となるG-FESTは、毎年日本からゴジラや怪獣映画・テレビに出演した俳優、監督や関係者らをゲストとして迎える。今年はゴジラ映画には欠かせない宝田明さんをはじめ、今年50周年を迎えている「ウルトラQ」や「ウルトラマン」のヒロイン桜井浩子さんや、初代ウルトラマンとしてキャラクターを確立させた古谷敏さん、特撮には欠かせないミニチュアの町並みを作り上げた寒河江弘さん、「キングコングの逆襲」のヒロイン、リンダ・ミラーさん、ウルトラシリーズやゴジラシリーズで助監督を務めた石井良和さん、怪獣映画に子役として出演していた内野惣次郎さんなど、豪華ゲストが勢揃いした。
会場では会場では特別ゲストによる講演会やサイン会、怪獣映画上映会、ビデオ・ゲーム、特撮実演、怪獣工作クラス、コスチューム・パレード、怪獣俳句など、数々のイベントが行われた。

 NASAのロケット打ち上げも撮影していた写真家のカールトン・ベイリーさんは6歳の頃、恐竜に興味を持っていた。1958年か1959年のことだった。ある日教会から戻ると、母親がリビングルームでアイロンかけをしていた。その頃テレビには3チャンネルあって、2つは教会のサービス、もう一つは日曜シアターだった。もちろんベイリーさんが選んだのはゴジラ。驚いたのは母がアイロンをかけながらそれを見ていた事だった。最初に映画館で見たのは「キングコング対ゴジラ」だった。
ベイリーさんはフロリダ在住で、初めてG-FESTに参加した。「今までは写真の仕事やハリケーンなどがあって来られなかった。歳を取って来て、まだやっていない事をこなしているんですよ」と話す。「ゲストの方々はこちらから近づかなくても、廊下で会ったら気軽に声をかけて握手してくれる。こんな人達はいませんよ、とても有り難く思っています」と語った。

 インディアナ在住のトッド・ポールさんはシカゴのゴジラファンとソーシャルメディアで知り合い、初めてG-FESTに参加した。7歳だったポールさんが初めてゴジラ映画を見たのは1977年か1978年だった。映画は非常な驚きで、以来テレビを付ければゴジラを選んで見た。「ゴジラを見れば誰だってファンになる。今46歳ですが、40年経ってもファンなんですよ」と話す。
ポールさんはゴジラ映画のDVDを買っては見続けて来た。1977年に60センチもあるゴジラを買って、今でもそれを持ち続けている。「私はモスラの方が好きなんですよ。2人の双子の小さな妖精が歌うでしょう。あの歌をスマホの着信音にしているんですよ」と話すポールさんに、最近の伊藤ユミさんの死を告げると悲しそうだった。
ポールさんは宝田明さんに会い握手できたことが光栄だったと話し、「これからG-FESTに毎年来ますよ」と語った。

 G-FESTは、カナダの高校教師でゴジラファンのJ・D・リーズ氏がゴジラファン向けにニュースレターを発行したことに始まる。1993年に初めて発行された“G-FAN”は、たちまち世界のゴジラファンの間に広まり、翌年の1994年に約20人の有志が初めてシカゴ郊外で顔を合わせた。シカゴに集まったのは、オヘア空港に全米・世界各国から乗り入れができるため。以来毎年コンベンションが開催されている。
中年層が中核を成すファン達は子どもや家族を連れて来るようになり、参加者の裾野が広がっている。

 G-FESTの楽しみの一つは、怪獣映画のスターや監督から撮影現場の裏話や苦労話を直接聞けること。元近鉄バファローズの野球選手で、日本生活が長いロバート・スコットフィールド氏の機知に富んだ通訳でこのイベントが可能になっている。スコットフィールド氏自身も「ゴジラ対キング・ギドラ」に出演しており、現在も怪獣とは深い関わりを持っている。

 宝田明さんの講演会はほぼ満席となり、ファンの大きな拍手が宝田さんを迎えた。
一作目からファイナル・ウォーズまで28本のゴジラ映画のうち6本に出演した宝田さんは「大スターとして今も君臨しているゴジラを尊敬している」と話し、「なぜこんなにスターになったかと言うと、彼も核の被爆者の一人であったこと。鳴き声も僕には少し悲く聞こえて仕方がない」と話した。

 宝田さんは撮影現場のエピソードを面白く話しながら「日本は広島・長崎で合計28万人があっという間に焼け死んで、9年後にビキニ環礁で第五福竜丸が被爆して船員が亡くなった。それで東邦は核廃絶の意味を込めて、このゴジラという映画を作った」と説明し、「こういう祈りを込めて作った映画が、こうやって現在も世界各国、特にアメリカの方々に多く支持されているというのは、本当に健全だと私は思います」と話した。

 宝田さんは更に数々のエピソードを語った後で、会場のファンから1956年にアメリカで上映された最初のゴジラ映画について質問を受け、「私の個人的な感想だが、日本人が言う核の恐怖、それに対する警告、そう言うものは全部カットされてしまいました。アメリカの映画は継ぎ足し継ぎ足しで、僕は悪いけども、できの悪いパッチワークのような映画だと思います」と答えると、拍手が湧き上がった。
「今でこそアメリカの人もオリジナルを見て、ゴジラの最初の映画の精神をちゃんと理解して下さっていると言うことに僕は感謝をしたいと思います」と宝田さんが話すと、また拍手が湧き上がった。

 最後に宝田さんは「次にゴジラ映画に出るならば、ゴジラとアイコンタクトで話ができる役で出たい。日本の国の近くで核開発している危険な国があるから、君はあそこに行って基地を踏み潰して来いというこをアイコンタクトでゴジラに知らせたい。また、日本の国会議員達にオリジナル・ゴジラを見て欲しい。そういう企画を考えています」と話すと、大歓声が上がった。

宝田さんインタビュー

 宝田明さんは政治団体「国民の怒り」から参議院議員出馬を表明したが、取り下げた。その経緯を伺った。

 宝田さんは小学生の時、満州で終戦を迎えた。進入して来たソ連軍の暴行・略奪を目撃している。また、宝田さん自身もソ連兵に腹部を撃たれた。混乱の中で、麻酔なしで切開手術を受け一命を取り留めた。日本へ引き揚げる際には、徴兵されていた兄と離ればなれになった。数年後にぼろぼろな姿で日本の実家に戻って来た兄は、精神的な痛手を負っていた。引き揚げ後の生活も大変だった。

 この様な体験を持つ宝田さんは「戦争に対する否定的な、拒絶感みたいなものがありまして、やはり平和を追求しなければいけないと言うことで、ずっと今まで講演会などいろいろな所で話して来ました」と話す。
ある時、慶応大学教授で憲法学者の小林節氏と話し共鳴するところがあり、小林氏に「ぜひ(参院選に)出て下さい」と言われ、出馬することになった。

しかし、宝田さんは政治の場に出るのは素人だった。出馬に必要な情報のフォローが小林氏側から何もなく、互いの間に温度差があることは明白だった。
「やはり若い人達に道を譲るべきだと思って、僕は演劇や映画、講演活動で平和主義を貫いて行こうという考えに至って、それで割と早く引き下がりました」と宝田さんは語った。 

終戦からやがて71年になり、世界情勢は緊張を増している。日本の立場はどうあるべきなのか、宝田さんの考えを伺った。

宝田さんは「僕はある意味では(日本の憲法は)世界の法典だと思っています。政治も経済も文化も社会も、すべての問題はその国が戦争をしないと言うことの上で立脚していないと、また戦争してしまったら総てが滅茶苦茶になってしまう」と述べた。
また、覇権主義的な国には世界がスクラムを組んで警告を発するべきだが、武器を持たず平和外交を進めるべき。防衛費は5兆円を超えているが、子育てやインフラ設備など国内の問題にもっと目を向けるべき。
18歳から投票できるようになり240万人が新しいエネルギーとなって日本の骨格を作る一部となったことから「僕はやはり彼らにうんと訴えて行きたいと思いますね。作品を通じて、或いは講演会を通じてね。我々の年代の者は次の世代に伝えて行く使命があると思いますね」と語った。

 宝田さんはミュージカル「葉っぱのフレディ」などを通じて日本全国やニューヨークで命の大切さを訴えて続けている。また、3年前には「宝田座」を作り、軍国少年だった子供時代から現在までの自伝を劇にして、日本全国で公演を続けている。シカゴでも公演を考えてみたいと話した。

 最後に、82歳になる宝田さんは若さを保つ秘訣として「目標を持ち、信念と情熱を持つことだ」と話してくれた。

※50周年を迎えているウルトラQとウルトラマン・ストーリーは次号で


ファンと写真を撮る宝田明さん
 

カールトン・ベイリーさん

創始者 J.D. Lees氏
 

ゴジラファン、トッド・ポールさん

熱心に宝田さんの話を聞くゴジラファン