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東大生体験団が
アーク・テクノロジーズを見学
米国起業について学ぶ

• 体験研修で訪シカゴ中の東大生グループ10人が8月8日、自動車部品メーカー、アーク・テクノロジーズを訪問した。学生の一人は「現役の日本人の方から直接話を聞きたい。個人ではできない機会だ」と話した。

• 訪問団を歓迎した壁下稔社長兼CEOは、アーク・テクノロジーズ社の概要について説明した。
• 同社は1980年に壁下新氏(現・名誉会長)によって創設された。同社は自動車のエンジンやブレーキなど、いろいろな所に使われている精密スプリング(バネ)を主に製造している。
• エルクグローブで操業を始めた同社は、1993年にセント・チャールズ(デュページ・カウンティ)に工場を建設し移った。同工場は現在7万2,000平方フィートに拡張され、従業員約250人を抱える。
• 1994年に同社はマイノリティビジネスとしての資格を取得、1998年にはISOという品質規格の資格を取得した。2000年にはイリノイ州政府からマイノリティ最優秀製造業賞を受賞、2010年には創業者の壁下新氏が旭日双光章を受章した。
• 2015年には自動車業界のメキシコへの進出や人件費上昇に対応し、関連会社ARK de Mexicoを創業した。ここでは既に約200人が働き、人手を要するワイヤーハーネスの生産を行っている。

• 壁下新氏はアークと同時にアルタック社も創設、セント・チャールズに新築したアルタックの工場では主にヘッドライトやテールランプに使うワイヤーハーネスを生産し、約200人を雇用している。現在は壁下稔氏が社長を務めている。

• 両社の主な顧客はトヨタ、ホンダ、ニッサン関連の企業で、アイシン精機、デンソー、日立、川崎重工など、自動車部品製造会社にスプリングやワイヤーハーネスを納めている。

• 壁下稔社長は最近の自動車業界のリコールに触れ、品質第一・不良品ゼロのポリシーを全社員に徹底していると説明した。同社は約100台のコンピューター制御のバネ製造機を設備し、アイシン、デンソー、日立など多くの企業から品質賞を受賞している。

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創業の決断、挑戦、苦難、成功

• 創業者の壁下新・名誉会長はまず「ビジネスというのは、一生懸命やったからと言って必ずできるものではない。これは非常に、幸運というものがついて回る。幸運とは個人の努力によるものだが、努力してもダメなことはいっぱいある。努力する方向を決めて、その周囲の状況を自分にインプットして、それを分析して、自分にフィットするかしないか、それを見極めて努力する。それが大事だ」と語った。
• アークとアルタックは創業以来36年、自動車部品製造へと邁進し、北米で信頼を確立し、顧客のニーズに応え、雇用を創出し、ビジネス外でも日米間の架け橋として大きな貢献をしている。

• 壁下新氏にとって、今年はシカゴ在住となって50周年となる。商社・関谷産業のシカゴ支店開設の使命を受けてシカゴに赴任、12年後の帰国命令を切っ掛けに1979年に同社を退職した。当時は帰国子女の受け入れもなく、米国で育った子供達を連れての帰国は難しかった。

• 翌年の1980年にアルタック社を作り、その秋に理研発条との合弁会社「理研スプリング」を創設した。
• 米企業に再就職の道もあったが、その将来は商社時代12年の経験から明らかだった。米企業に迎えられた日本人ビジネスマン達は3年ほどで雇用を切られるのが殆どだった。
• また、製造業を選んだのは実態があるからだった。商社の場合は売買差益が利益だが、その仕事が継続するかどうかは不透明だ。努力の積み重ねが実るのは製造業だった。

• しかし、製造業は設備を整え、人材を育成し、顧客の信頼を得るまでに時間がかかる。当時は手曲げで作るのが普通だったスプリング業界に、壁下氏は高精度のスプリング製造が可能なCNCというコンピューター付きの製造機械をいち早く導入した。
• だが、高額投資により数年の赤字は避けられなかった。この一番苦しい時に、理研発条は合弁を解消し撤退した。壁下氏は「私にとっては大きなショックだった」と語る。
• 壁下氏の投資はやがて実を結び、CM、フォード、クライスラー系の自動車メーカーにスプリングの納入が始まった。 
• やがてトヨタ、ホンダ、ニッサンなどが米国現地生産に乗り出した。各社は米国大手スプリング・メーカーを探したが、結局CNC機械で製造しているのはアーク社のみで、その品質が買われた。しかし、ビジネスとして相手が要求する数を製造するキャパシティがなかった。その点で非常に苦労したと壁下氏は語る。

• 1988年にスプリングとワイヤーハーネスが自動車に同時に使われるということから、ワイヤーハーネスを生産することになった。この頃から雇用も増え、当時社屋があったエルクグローブの市長から雇用創出により名誉市民賞を授与された。
• 1993年にはセント・チャールズの新社屋に移り、社名もアーク・テクノロジーズと改めた。

• 「当時一番困ったのは運用資金」だと壁下氏は語る。サラリーマンから事業家となった経営者が何億円という資金の調達は簡単にはできない。融資先を探した結果、業績が伸びているからという評価を得て、米政府から410万ドルの融資を受けることができた。「そのお陰で機械も買い、工場の増築もできた」と壁下氏は語る。

• しかし、良いことばかりではなかった。2001年には心臓血管のバイパス手術を受けた。壁下氏の健康を懸念した出資者から、株を全部買い取って欲しいと言って来た。
• 「これも苦しかった。成長のさなかに一人の株主が撤退と言うことは非常にショックだった」と語る。

• ショックを乗り越えた2003年にアルタック社がマイノリティの最優秀製造業賞を受賞した。2006年は著書「空飛ぶ社長のアメリカンドリーム」を発行した。その後、壁下新氏が会長となり、長男の稔氏が社長となって会社の継続を確かなものにした。
• 2012年にフロリダに新工場を建設、キャパシティ一杯になりつつある工場の拡大を図ったが、人材教育面などで難しかった。2年後には設備をシカゴに戻して工場の売却を考えたが、幸運なことに借り手が見つかり安堵することになった。

• 起業の決断について学生の質問に答えた壁下氏は「製造業としての起業は人生の大きな転換期だった。どれだけ貧乏に耐えられるか。生活をマネージする妻の三智子にとっては、何の将来の補償もない。あの時三智子に止められていたら、創業はできなかった」と話した。

• 一番困難な体験は?との質問に対し壁下氏は「資金の手当てに一番苦労した。当時は国籍が日本で担保がない。外国人に対して銀行は警戒する。苦しくても借りたものは毎月返す、その資金繰りをやったのが三智子です。その信用の積み重ねが次への融資のかてになって、100万ドルが500万ドル、500万ドルが1000万ドル、1000万ドルが2000万ドルという風に増えていった」と語った。

• 会社の財務、家事、子育てをこなして来た三智子夫人は「会社の仕事の方がずっと楽。家庭の仕事は大変だとつくづく思ったけども、次の世代に繋げるのは大事。女性の力で子供さんを育てて、次の世代に繋げて欲しい」と学生達にアドバイスを贈った。

• マイノリティビジネス資格取得についての質問に対し、壁下氏は「資格は日系自動車会社を含め米国全社に登録される。企業の買い付けの5%をマイノリティから買うことが義務づけられており、これがメリット。一方、勤勉でないマイノリティーと誤認されることもあり、それがデメリットだ」と説明した。

• アメリカで仕事をする良い事は?という質問に対しては、系列がないこと。米国では銀行を含めて、実績が認められればビジネスができる事だと話した。
• また壁下氏は、日本の一般常識が通用しないこと、転職、人種間・男女間の対立、自己中心主義など、米国と日本との文化の違いについてもアドバイスを贈った。

• 最後に壁下氏は起業から36年を振り返り「思いがけずパイロットの免許を取得でき、飛行機でお客様を訪問してニーズに応え、叱られて帰ってくる。シカゴに戻るのはいつも夜。着陸して、無事帰って来たという達成感は、一日の疲れも全部消えてしまうような思いだった」と話し、「今日のアークとアルタックがあるのは、広大な米国を飛行機で営業活動ができたことだ」と語った。
• 健康上パイロットの免許を返上せざるを得なくなった壁下氏は、今の最高の喜びは若い人達に会って話す事だと述べ、「節度を失わず、品格、人格、人からの信頼を保ち、皆さんから立派だと認められる人材になって欲しい」と学生達を激励した。


アーク・テクノロジーズを訪問した東京大学学生グループと、講演する壁下新会長
説明する壁下新会長と三智子夫人(左)
壁下稔社長