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An image from Kizuna 6 Exhibition


From left: Consul General Naoki Ito, Yuno Kimura, Leroy Allala of Chicago Sister Cities International, Lisa Kohnke of Mayor Rahm Emanuel's Office, and Thomas Choi of Governor Bruce Rauner's Office. Kimura presents flowers to express Japanese people's gratitude for Chicagoans.


Takuma Sato presents his activities to help the victims in Tohoku.


• Professional race car driver Takuma Sato
絆6:復活の力を表す写真展
レーサー佐藤琢磨氏講演会も

• 東日本大震災から6年を記念する追悼イベント「絆Kizuna 6:復活する力」が3月23日、在シカゴ総領事館広報文化センターで開催された。シカゴでは東北の人々のために「何かやろう」と、シカゴ姉妹都市インターナショナル大阪委員会の野毛洋子委員長がイニシャティブをとり、2012年に絆写真展を開催した。以後、毎年記念イベントを開き、写真展を通してシカゴと東北の人々の繋がり、被災地復興の様子を伝えて来た。今年は野毛氏に代わり、名嘉君代氏とスターニー・江口・香氏が共同委員長となり、第6回目となる絆イベントを開催した。また、「With you Japan」というプログラムで2011年から東北支援を続けているカーレーサー佐藤琢磨氏の特別講演が行われた。

• 今年の写真展はシカゴ美術大学写真部のアラン・ラブ准教授がキューレーターとなり、過去の東北の写真や、東北の写真家・宍戸清孝氏の最近の写真に加え、2016年の地震で大きな被害を受けた熊本の写真も展示された。
• ラブ氏は一枚一枚の写真そのものが復興の力を物語るものを選んだという。個々の写真は被災地の人々が直面する苦難を映し出す一方、その人々の内面の強さ、日本の集団的な精神の強さ、最悪の状況を乗り越える力、そして天災に対する生活のもろさを表していると語った。

• 挨拶に立った伊藤直樹在シカゴ総領事は、シカゴや中西部の人々が震災後直ぐに義援金ファンドを立ち上げるなどの行動を起こしてくれたことに感銘を受けたと話し、まだ14万人が避難し4万人が仮設住宅で暮らしていると述べ、被災した人々が元の生活に戻るまで支援が必要だと話した。
• また、宮城県女川町の高校生グループが、自らの被災経験やそれから得た教訓を千年先の人々に伝えたいとの思いで完成させた「女川いのちの教科書」について話し、息づく新しい東北の様子を伝えた。

• 絆6イベントの共同委員長を努めたシカゴ市長室のリサ・コンキー氏がラーム・エマニュエル市長のメッセージを、イリノイ州知事室のトーマス・チョイ氏がブルース・ラウナー州知事のメッセージを伝え、両氏ともに東北の復興努力を称えた。

佐藤琢磨氏講演

• 世界的なレーサーとしてインディーカー・シリーズやF1レースで知られる佐藤琢磨氏は、東日本大震災発生後直ぐに支援に取りかかった。2011年3月27日にフロリダ州セント・  ピーターズバーグで行われたインディーカー開幕戦で「With you Japan」ブログラムを正式に発表し、開幕戦に参戦したドライバー、ティーム、メカニックの人々からサイン入りのグローブやレーシングスーツ、ヘルメットなどの寄付を受けた。

• 震災発生時、佐藤氏は欧州から米国に向かう飛行機の中にいた。空港でニュースを聞いた佐藤氏は大きな衝撃を受いた佐藤氏は大きな衝撃を受けた。そして、「自分はレースなどやっていて良いのだろうか」と自問した。だがレースには多くの人々が関わっており、レースをやめて被災地に行くことはできない。走り続ける中で、どうやってアメリカから日本を応援できるかを考え「With you Japan」を立ち上げた。

• 佐藤氏はレースの合間を縫って、カリフォルニア州ロングビーチでファンドレイジングイベントを開いたり、インディアナポリスやニューハンプシャー、ラスベガスなどの小学校を訪ねて震災の状況を説明したり、被災地の子ども達のために絵を描いてもらったりした。
• また、5月には石巻や南三陸町などの学校を訪ね、生徒らを元気づけた。
• 夏には長距離バス3台を調達し、南相馬の子ども達と保護者129人を「ツインリンクもてぎ」に招待し、外で遊べない子ども達のために「佐藤琢磨と元気に遊ぼう!」というチャリティイベントを開いた。ここには所属する自動車メーカーに関係なく、多くのレーシングドライバー達が集まってくれた。
• 2泊3日のインディジャパン・プレミアム観戦ツアーも企画し、名取市の子ども達と保護者21人を招待した。
• 佐藤氏は驚異的とも言えるエネルギーを注ぎ、多くの支援イベントを継続している。その詳細はhttp://www.withyoujapan.org/ja/activityで見ることができる。

• 佐藤氏は未来の子ども達を支援したいと「タクマ・キッズ・カート・チャレンジ」も続けている。レースの楽しさやエキサイトメントなど、非日常的な世界を通じて夢を持つことの大切さやチャレンジする事の楽しさを知ってもらいたいと子ども達を招待している。
• 最初は被災地の子ども達を招待した。子ども達はゴーカートの運転を学び、最後にはコースを走ってタイムも計る。現在では全国から参加者が集まるようになり、参加者の半分は被災地から来てもらうようにしている。参加者が450人に達したため、タイムを計って上位40人に大会に出場してもらうことにした。4人から5人が1チームとなって耐久レースをやると、各地から来た子ども達に友情が芽生え、チームワークで一つの目標に向かうことを楽しく学ぶことができるという。昼休みには葉書に自分の目標を書いてもらい、1年後に本人に届くようにするワークショップも行っている。
• ある時、4歳位の女の子がやって来た。最初は怖くて泣いていたがやり始めると緊張しながらも楽しくなる。その子は夕方にはゴーカートで本コースを走り、タイムトライアルをやってチェッカーフラグを受けた。その時には満面の笑顔になっていた。佐藤氏は「大きくなって何かに興味を持ち、それは無理だと思った時に、『あの時できたんだからやってみよう』と思う引き金になればいいと思う。その環境を作る支援をしたい」と語った。

佐藤琢磨のチャレンジ

• 佐藤氏は1977年、東京生まれ。10歳の時にカーレースを見て夢中になった。しかし、その世界には無縁の家庭で育ち、自分にできる事で車輪があるものは自転車だけだった。高校・大学と自転車競技に打ち込み、インターハイ優勝や全日本学生個人戦優勝など顕著な成績を収め、オリンピック出場を目指したこともある。しかし、カーレースへの熱望は常に胸にあった。
• 鈴鹿サーキット・スクール開校を知ったのは19歳の時だった。年齢制限は20歳。佐藤氏にとって最後のチャンスだった。両親の承諾を得て同スクールの試験に臨んだが、受け入れられるのは70人中、7人のみ。選考では今までのカート成績のみが考慮されると聞いた。
• 佐藤氏は絶望したが、諦めなかった。学校側と直接話したいと熱心に頼むと、学校側はそれを認めて70人のインタビューを実施した。「最初で最後のチャンス」だと懇願する佐藤氏の熱意が学校側を動かし、遂に入学が認められた。
• 佐藤氏は奨学金を得て同校を卒業した。奨学金がレースキャリアを続けるために何よりも大事なことだった。
• 渡英した佐藤氏は老夫婦宅にホームステイしながら語学学校に通い、レーシングドライバーとしての技術を磨いた。F3レースで優勝を重ねてチャンピオンとなり、F1ドライバーとしての栄光を手にした。そして2010年、インディカーシリーズに参戦するために渡米した。

No Attack, No Chance

• インディアナポリスで行われた2012年のインディ500マイルレース。佐藤氏は19番でスタートし、全200周のうち残り3周で3位に浮上、残り2周で2位のインに飛び込み自らが2位に浮上した。しかし、佐藤氏は2位に甘んじることはなかった。ファイナルラップで首位に仕掛け、インを突いた。

• しかし、惜しくもスピンし、コースを外れて壁に衝突した。
• 佐藤氏は「インディ500は優勝か皆無がすべて。2位でも$1 millionの賞金があるが、後悔しない。私のレーシング・スタイルは『No Attack, No Chance』。これが私の哲学だ」と話す。
• 「このチャレンジがなかったら、たぶん今はレーシングできていないだろう」と佐藤氏は言う。このシーズン後、佐藤氏は「絶対に勝とうとするドライバー」を求めていたAJフォイト・レーシングに請われ、同チームに移籍した。
• 翌年の2013年、佐藤氏はインディカー・シリーズ第3戦のロングビーチで後続を大きく引き離して優勝、インディカー・シリーズで優勝した初の日本人ドライバーとなった。

• この様な生き方を通して佐藤氏は「子ども達に恐れるなと言いたい。チャンスが来たらチャレンジする必要がある。チャレンジすれば誰かが見ている。子ども達が『自分にもできる』と思えるまでの環境が必要だ」と語った。

佐藤琢磨氏インタビュー

• Q:鈴鹿レーシング・スクール卒業後、異例の早さでF1ドライバーになられましたね。

• 佐藤:3、4歳からゴーカートを始めて、だいたい15年から20年のキャリアを持ってF1に上がって行くのが通常ルートですけど、僕の場合はゴーカートのステアリングを握って5年でF1に行けました。
• 渡英して私が目標設定したのは、F3で2年以内に結果を出す事です。そのためには下積みが必要だと思い、ステップダウンしてF3のジュニア・カテゴリーから入りました。右も左も分からない国で、モータースポーツの経験も大して無くて、次々に若手が入って来るF3の熾烈な競争の中で成功する訳がないと思ったので。
• 1年半後の2000年からF3にフル出場しました。その時には英語でコミュニケーションも取れるようになっていたし、レースも分かっていました。国籍に関係なく、1ドライバーとしてトップチームに入るのが目的だったので、それをやった訳です。

• Q:イギリスF3で4勝、シリーズ3位、フランスF3スポット参戦優勝、翌年はイギリスF3で12勝しシリーズチャンピオン、F3 International Invitation Challenge 優勝、Marlboro Masters of Formula3 優勝、The 48th Macau GP 優勝。まさにF3ドライバーとして世界の頂点に立たれましたね。

• 佐藤:いろいろな人との出会いがあって、助けがあって最終的にそこに行き着き、2年でF3のチャンピオンシップをとって、それがあってこそF1に行けたと言うのがありますね。また、当時ホンダがF1に力を入れていて、そう言う時代のタイミングもありますね。特にモータースポーツの場合は個人の力だけではどうにもならない世界なので、すべてが合わさって上に行けたという感じですね。

• Q:勝つためにはメカニックとのコミュニケーションが必須と聞いていますが。

• 佐藤:そこが実はポイントなんです。レーシングドライバーというのは、車の能力を100%近くに引き出すのが仕事なんです。レーシングドライバーは誰しも車が劣っている部分は腕でカバーしようと考えている。それが通用するのは本当に最初の下のカテゴリーだけですね。上に行けば行くほど車の持つ能力の差を人間の能力で埋めることはできなくなるんですよ。レーシングドライバーならば良い車に乗せたら誰でも良いタイムは出せる。しかし、そこに持って行くのは、限られた時間の中で車を仕上げるのはエンジニアやチームとドライバーの共同作業ですから、調子の悪い所をエンジニアに伝えるコミュニケーション能力や知識が必要なんです。例えば45分のプラクティスが3回だけで、もう予選があって、その後はもう決勝です。
• 走り出したらピットストップもある、タイヤ交換もある、給油もある。ピットで1秒をロスするとコース場で1秒を取り戻すのは大変なんです。そもそも全力で走っているので、1周辺り0.1秒取り戻すとしても、1秒を稼ぐのに10周かかるわけなんですよ。ドライバーは1万分の1秒の闘いをやりつつ、ピットストップではメカニック達が千分の1秒でも早くミスなく作業を終えると言う、本当にチームワークが大事になんです。
• ドライバーも単純に車を運転するだけじゃないですね。運転しながらタイヤの環境が刻々と変わって行ったり、ハンドリングが変わっていったり、相手との駆け引きがあったり、コース場でのバトルがあったり。それらを無線でやり取りしながら、状況を判断する能力、コミュニケーションする能力というのが問われるんです。それらが総合的にコンペティティブ・パッケージとして大変良いドライバーがチャンピオンになって行く。そうでないドライバーもいますよ。

• Q:去年のAJフォイトから今年はアンドレッティに移籍されましたね。

• 佐藤:今までのやり方と違ったり、知らない人達と本当に関係を作るのに時間がかかりますが、逆に言うと楽しいですね。今回は絶対的にチームの力が強いので、単純に前の方でレースをする機会が増えてきますから、自分としては非常に興奮する材料ですし、一刻も早くそのチームに溶け込んで、彼らのやり方の中で自分のベストパフォーマンスを出していく、これが自分のチャレンジになりますね。

• Q:首位で走っていてもピットインで遅れることがありますね。

• 佐藤:ある程度ストラテジーとしてありますけど、最終的にはドライバーとチームの両方が判断します。例えば残り2周分の燃料が足りないという時に、1回ピットに入ると20秒ぐらいロスする。20秒のマージンを後続に築けるのであれば全力で走って20秒のマージンを作ってからピットインする。どう考えても10秒ぐらいしかマージンが作れない場合、1周当たり1、2秒遅くなっても燃料を節約しながら走る。追いつかれても抜かせないという事実もありますし、上手くコントロールすれば燃料補給なしでゴールできる可能性があります。
• ストラテジーをチームで計算しながらオプションをドライバーに与えて、ドライバーが最終的には判断する。前に周回遅れの車がいたりすると、このストラテジーが変わって来るので、その辺も見なければなりませんね。

• Q:怖いとか思うことありますか?

• 佐藤:人間なんで怖いと思うことは沢山ありますよ。
• ただ僕は思うんですけど、未来が見えない時に人間は恐怖を感じるわけですよ。車に乗ってもの凄いスピードを出してコーナーを曲がった時に、この車がどうなるか分からない、壁にぶつかって死んでしまうかも知れないと思うから怖いわけですね。それは車と人間が一体になっていない時なんですね。
• 本当に人車一体になると言う時には、身体中の神経がタイヤの先まで張り詰めるような感覚になるんです。完全に車がコントロール下にある時は300キロでオーバーでスライドしても何も怖くないです。
• しかし、それは単純に自分で走っている時だけのことであって、これがレースになるといろいろな外的要因なり付加的要素が入ってくるので、冷やっとすることは沢山ありますけどね。でも僕の場合は期待感や楽しさが怖さを常に上回りますね。

• Q:大きな事故に巻き込まれたことは?

• 佐藤:たくさんあります。しかし、インディカーやF1に代表されるようなトップカテゴリーの安全水準は凄く高くなっていて、自分自身も300キロで壁にぶつかったことは何度もありますし、100Gを越える衝撃を受けたことも何度もあるんですが、骨折は一回もしてないですし、一回も気を失ったことはないですし、ずっと健康体です、お陰様で。
• Q:それは身体を鍛えているからですか。

• 佐藤:鍛えいるだけじゃなくて、車サイドやサーキット側の安全対策が非常に考慮されています。車が行く方向というのは運動物理的に決まっていますので科学的に検証して、タイヤバリアやセイフティ・バリアが設置されています。だから僕らは100%パフォーマンスに集中して走ることができる環境になって来ていますね。50年前とはずいぶん違いますね。

• Q:コンマ1秒の世界で闘う中で、ドライバー同士の礼儀は?

• 佐藤:ありますね。いくら安全だとは言えお互いのリスペクトがないと、やはり300キロ出していると運動エネルギーは大きいですからね、。
• ライバル同士なので馬が合わないドライバーもいますが、基本的には相手のことを考えてリスペクトして走っている。特にインディカーのオーバルでは危険と隣り合わせというかハイスピードでサイドバイサイドになる機会が多いので、よけいにお互いを思うと言うことはやりますね。

• Q:スポンサー獲得は難しいですか?

• 佐藤:毎年大変ですよ。時代とかタイミングも関わってきますし、今はメーカーの力が無いと難しいですね。僕にとって凄くありがたいと思うのは、支援して下さっている企業さんなり個人さんなり、スポンサーが凄く沢山ついてくれているので、自分自身もこうやって活動を続けることができますね。
• スポンサーは夢を一緒に追いかけて行くことに共感して頂いている人達だったり、支援する企業理念だったりという所があると思うので、そこは僕も凄く感謝していますね。スポンサーがなかったらこのスポーツは絶対にできないですね。

• Q:どうもありがとうございました。