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日系人強制収容の実態を証言する写真展
「アメリカ人とは何か」を問う
"Then They Came for Me"

• 人種差別主義・外国人嫌い-現政権であからさまになりつつあるアメリカの暗い部分を危惧して、アルファウッド・ギャラリーが定住者会と共に日系人収容の実態を見せる初のオリジナル展示会「Then They Came for Me: Incarceration of Japanese Americans during WWII and the Demise of Civil Liberties(そして、それらは私にやって来た:第二次世界大戦中の日系人収容と人権の崩壊)」を6月29日から開催している。入場無料、11月19日まで。
• Alphawood Gallery: 2401 N. Halsted St. Chicago、駐車は周辺の路上。近くにはChildren Memorial Hospital Garage, 2316 N Lincoln Ave., Chicagoがある(有料だがそれ程高くない)。

• アメリカ人とは、どんな人を言うのか? この国にどんな人が歓迎されるのか? 人種差別主義を見せる米政権の動きに対して、アメリカ人の義務とは何か?  日系人収容の写真や証言ビデオなどを通して、展示会はこの様な疑問を投げかける。そして、国家安全の名の下に、訴訟手続きもなく、憲法に謳われている人権の保護もなく、約12万人の日系人が強制収容された米国の暗い歴史を分析する。

• フランクリン・ルーズベルト大統領の大統領命令9066によって、殆どの日系人が短期間で立ち退きを強要され、10カ所の荒れ地に急普請したバラックに強制収容された。持って行ける荷物は1人1個だけ、それまでに築いていた財産のすべてを失った。

• 会場は12,000万平方フィートと充分なスペースがあり、一階と二階の壁には100点を超える大型の写真が展示されている。これらはシカゴの写真歴史家リチャード・チャハン氏とマイケル・ウィリアムズ氏が出版した「Un-American」から選別したものと、著名な米国写真家でフォト・ジャーナリストとして知られるドロシア・ラングやアンセル・アダムスなどの写真が中心となっている。ラングは米政府の戦時移住局(War Relocation Authority)に収容のプロセスを記録するために依頼された写真家で、強制立ち退きを告知され収容所に送られる日系人の表情をとらえている。アダムス氏は日系人強制収容を知り、自ら政府に働きかけて収容所に入り撮影している。この他、持ち込みが禁じられていたカメラのレンズだけを密かにカバンに隠し、後に手製のカメラを組み立てて収容所内の写真を撮り続けた宮武東洋の写真などが展示されている。
• 主に立ち退きから収容されるまでを追ったラング氏の写真は、正装して毅然と輸送列車を待つ日系人の、尊厳を崩すまいとする誇り高い姿を写している。会場で写真を見ていた日系三世は「家ではこうじゃなかった・・・」とポツンと語った。

• 会場には写真の他、当時の書類、日記、収容所内で手作りした家具などが展示されている。また、自らの経験を語る日系人の複数のビデオも設置されている。
• ギャラリーでは展示だけでなく、展示に関するいろいろな一連のプログラムを実施している。スケジュールはwww.alphawoodgallery.
• orgで。

ロイ・ウェスリー氏の証言

• 同展示会のオープニング・レセプションが6月28日に行われ、日系三世のロイ・ウェスリー氏(75)が自己の家族の経験に基づき、日系人収容で何が起きたかを証言した。

• ウェスリー氏の父方は上杉、母方は佐々木だった。
• 父方の祖父は1899年、19歳で和歌山県から米国に入植し、サーモン加工工場、鉄道工事、製材所などで働き、12年後に一度和歌山に帰ってチヨ・ハタさんと結婚した。結婚後はオレゴン州ウェストポートに戻り、農業経営を始めた。

• 母方の祖父は音楽教育を受けるために1905年、17歳で渡米、ワシントン州シアトルに着いた。教会のクワイヤー・グループで、同じく音楽教育を受けに来ていた祖母と知り合い結婚した。祖父はFrederick and Nelsonの家具部で働き、同社の合唱団を指揮していた。

• 父・上杉はウェスト・ポートで生まれ、家族がポートランドに移ってからは読書で多くの時間を過ごし、家族のホテルビジネスや食品店を手伝っていた。高校卒業後はサーモン加工会社や製材所で働いて学費を貯め、ノース・パシフィック大学の検眼部で学位を取得し、1940年にアイ・クリニックを開いた。

• 母はシアトルで育ち、教会活動でポートランドのバスケットチームを訪問、そこで父と知り合い、1940年に結婚した。
• 近所で印刷業を営むグローセンバッカー氏と親しくなり、同氏がアイ・クリニックを時々訪れていた。父は同氏の娘のためにメガネの処方箋を無料で出して上げたことがあった。

• 1941年12月7日に真珠湾攻撃が起き、日系人への偏見と嫌悪が急速に高まった。当時父はポートランド市民協会(Japanese American Citizens League)のプレジデントを務めており、日系人の米国への忠誠心を訴え、新聞が書き立てる日系人報道や噂の間違いを説明していた。また、ポートランド消防補助部や警察部に奉仕し、橋の夜間警備に出たり、警察と共にパレードの訓練などに奉仕していた。また、FBIを助けて、米国に忠誠心を持つ一世のリスト作りにも貢献していた。

• ある日、父の留守中にFBIの調査員が家にやって来た。家を調べた調査員が祖父を連行するかどうか上司に尋ねたところ、上司は「必要ない」と述べ、FBIは立ち去った。後に祖父から聞くと、その上司がグローセンバッカー氏であったことが分かった。同氏は印刷屋として市民に紛れたFBIのキャプテンだった。

• ロイ・ウェスリー氏は1942年5月5日に生まれた。ポートランド・アッセンブリー・センターに収容される前日だった。ウェスリー氏が生まれたことによって、母子は3日間だけ病院にいることができたが、すぐにセンターに収容された。

• ボートランド・アッセンブリー・センターは家畜を入れる動物舎だった。床にベニヤ板を張っただけの不衛生きわまる所で、悪臭がひどくハエが飛び回っていた。本格的な強制収容所ができるまでの5ヶ月間、ウェスリー氏達はそこでの生活を強いられた。

• 強制収容が始まった頃、慈善団体などの活動により、教育を続けたい日系人生徒を16大学が受け入れた。
• 父は家族と相談の上、センターに収容されてから3ヶ月後にリッチモンドにあるクエイカー系のアーラム大学に行くことに決めた。家族を残しての苦渋の決断だった。
• ウェスリー氏と母と兄はその後、荒れ地に建設されたミネドカ収容所に移送されたが、バラックでの生活は快適な自宅からほど遠いものだった。

• 大学に入った父は、寝る暇を惜しんで勉強した。そして円錐角膜炎を患い、視力を失いかけた。父は自分の治療のために研究し、その研究が毎日使えるコンタクトレンズの開発に繋がった。父は戦後、1950年代から60年代にかけて最大と謳われたコンタクトレンズ製造会社を創立・運営した。父はアーラム大学在学中に苗字を上杉からウェスリーに変えた。

• 2年の収容所生活を強いられた母は、後に裕福な生活を送ることができたが、強制収容の心理的ダメージは癒やされることなく、56歳の若さで早逝した。

• ロイ・ウェスリー氏は「他の誰にも我々の経験をさせてはならない」と述べ、「歴史は過去でなく、ここにある。そして我々は歴史を背負っている。もしも何事もなかったように振る舞うならば、それは犯罪だ」というジェイムズ・バルドウィン氏の言葉を引用している。
• Alphawood Gallery

• アルファウッド・ギャラリーはシカゴのアルファウッド基金の支援で運営されており、慈善をミッションに展覧会の場を提供している。
• アルファウッド基金は平等・公正、人道的な社会のために、年間200団体以上に助成金を出している。

• 開館時間は:
• 水・木 11 am - 8 pm
• 金-日 11 am - 6 pm
• 2401 N. Halsted St., Chicag


展示会の写真より



ロイ・ウェスリー氏