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「和食を一般の人々に広めたい」
海外活動を続けるシェフ・赤間博斗氏

 和食を海外に広げようと活動しているシェフ・赤間博斗氏が10月28日にシカゴ新報を訪れ、インタビューに答えた。
赤間氏は大阪府と和歌山県の境近くの加太にある旅館「大阪屋ひいなの湯」内にある「あくら」という日本料理店の料理長を務めている。その傍ら海外を訪問しながら地元シェフとのコラボレーションや講演、実演活動を続けている。

 赤間氏は今年6月、イタリアのプーリア州ペスキチにあるトラブッコ・ダ・ミミというレストランで、シェフ・ドミニコ・オタヴィアノ氏と共に和食とイタリアのフュージョン料理をコースにして提供した。
同レストランはトラブッコ漁場の傍にあり、新鮮な魚介類が上がってくる。レストランのオーナーの一族は地元を愛し、伝統を愛し、それを今に伝えているという。

 メニューは「シェフ赤間のにぎり寿司」「トラブッコのお好み焼き」、パスタをうどん仕立てにした「天ぷらのパスタ(トロッコリ)」、ご飯の代わりにパンを使った「イチジクのソースの鰻丼とパン」、「赤味噌を使用したトランペット茸の魚スープ」、デザートは「抹茶のパンナコッタ」。

 このメニューは一週間に亘ってランチとディナーで提供され、人気を博したという。赤間氏は「お好み焼きに乗せたかつお節が、踊るように動くのが非常に受けた」と語る。
ミミでのコラボレーションはユーチューブで見ることができる。https://www.youtube.com/watch?v=pbEo2lZkbLU

 赤間氏はこの他、トリノの調理師協会で講義し、弁当形式で日伊のフュージョン料理を出した。同協会から赤間氏にメダルが贈られたという。

 また、赤間氏は現代イタリア料理の巨匠マルケージ・ダ・グアルティエロともコラボレーションした。この時も弁当形式で日伊のフージョン料理を提供、それに加えラーメンも出した。すぐに作ることができ、とんこつの味がする料理法があると赤間氏は言う。

 更に来年、赤間氏がイタリアで和食に関する本を書くことが決まった。約30レシピに加え「和食とはと言う事も書こうと思っています。日本料理はテクニックだけではない。見た目、日本の風土、日本の歴史というのが分からないと日本料理を理解できない部分が多いので、そう言う部分も伝えていきたいなと思っています」と言う。また「日本人はろいろなものに感謝する慣習がある。食膳についても作ってくれた人に感謝するし、その土地、地域にも感謝する。その延長線上に日本料理というものがあるので、それをおろそかにすると良い料理は作れません」と話す。

 赤間氏は昨年もイタリアのサローネ・デル・グスト 、台湾、インドネシアなどを訪問し、実演や地元シェフとの交流を持った。「一般の方に和食を伝えたい。富裕層だけだと和食は広がらないので、どこに行っても一般に伝わる活動をしています」と赤間氏は語る。

 今回のシカゴ訪問でも、ケンダル大学やイリノイ・インスティチュート・オブ・アート・シカゴ、一般レストランで講義や実演を行った。

スローフード・
フェスティバル

 赤間氏の海外活動の切っ掛けとなったのが、2014年にイタリアのピエモンテ州トリノで開催されたスローフード・フェスティバルへの参加だった。
スローフードとは、マクドナルドがローマのスペイン広場に開店したことを切っ掛けに、イタリアの食文化を護ろうとファーストフードに対抗した運動から来たもの。現在ではスローフード協会が設立され、日本にも協会がある。これには作物を育てる土地の管理や肥料などいろいろな規定があり、それらをクリアすればスローフード協会から認定される。
このフェスティバルは2年毎に開催されており、認定を受けたオリーブオイルやピエモンテ牛など、いろいろな食材が世界から会場に集まって来る。
2014年は和歌山県のチーズ職人、酒醸造社、酢メーカー、醤油メーカーによりチームが結成され、スローフード・フェスティバルに出展することになった。だが、展示するだけでは訴求力が弱い。イタリアの食材を使った和食を出したいと赤間氏に打診があった。

 かくして赤間氏はフェスティバルに参加し、ピエモンテ牛の寿司、ピスタッチオのかき揚げ、ムール貝の味噌汁などを出して、和歌山の調味料や食材を使った料理を紹介した。
毎朝5時に市場へ行って材料を仕入れ、即興でメニューを考えて料理し、午後11時まで会場で料理を提供するという忙しさだったが、一週間のフェスティバル中にいろいろな人間関係ができた。フェスティバル中に知り合ったイタリア人シェフが、赤間氏が料理長を務める「あくら」に研修に来たこともある。

 味の好みも違う異文化背景を持つシェフとのコラボレーションの難しさはあるのか?

 赤間氏は「お互いを尊重し合い、相手の言う事を否定しないこと。否定すると接点がなくなってしまうので、なぜそう言う味にしたいのか相手の言う事を良く聞いて、自分でかみ砕いて理解し、じゃあこうしてみようと言う事で一つになる。だからそんなに難しい事はないですね」と語る。

 赤間氏は海外活動について「和食を単なるブームで終わらせたくない。僕はボランティアでやっていますけども、日本のシェフがどんどん現地に出かけて行ってやらないと、なかなか根付かないと思います。だから僕らも下の方からコツコツと広げていくように活動しています」と語った。

 赤間氏は来年、フランス、台湾、中国、香港、インドネシア、アメリカ、イタリアでの活動が既に決まっているという。

シェフ・赤間博斗氏

 赤間氏は島根県生まれ。実家は祖父の代から日本料理店を営んでいる。子どもの頃に「料理の道に行こうか」と話したことがあったが、父は「こんな辛い仕事はしなくていい」と答えた。
以後、赤間氏は料理人になろうとは思っていなかった。小・中・高と野球に没頭し、甲子園を目指していた。ポジションはセカンドだったが肩を壊した。隣町の高校には後に中日の監督となった谷繁元信選手がいた。この様なことから甲子園出場はならなかった。

高校卒業後はノンプロの野球選手、美術方面、体育インストラクターなどの進路を考えたが、企業への就職を決めた。最終面接で大阪に行くことになり、父親に報告すると、「大阪に行くんだったら」と辻調理師専門学校のパンフレットを黙って渡された。

 「やはり料理の道に行って欲しいのか」と思った赤間氏は、就職が1年後れても良いという気持ちで調理師学校に入った。入学後半年経つと就職の話が出てくる。赤間氏は流されるように京料理の店に就職した。
シェフになると親方の紹介や修行で3年位で店を変わる。二番手と言われる副料理長になった後も店を変わりながら二番手を7、8年続けた。二番手で経験を積むと、料理長になった時に楽だというのが親方の考え方だった。

 料理長になると、店の料理のコンセプトからオーナーとの駆け引き、原価、接客、部下の教育など総てがかかってくる。四国の店に料理長として採用され、レストランの設計から携わり、今までの経験が総て生きた。
3年後に現在の大阪屋ひいなの湯の社長から請われて「あくら」の料理長となった。

 料理長が海外活動ばかりしていて良いのか?

 赤間氏は「料理長がいなくてもいい。普段から二番手以下にやらせるようにしています。下のスタッフ達を伸ばそうとするのであれば、やらせていくのが一番。責任感も出ますし、料理長がそこにいれば何かあった時に頼ってしまう。僕がいなくてもうちの調理場は回ります」と語った。


Hirohito Akama and Domenico Ottaviano work together to serve
Japanese/Italian cuisine at Trabucco Da Mimi in Peschici, Puglia, Italy



Nigiri Sushi Dello Chef Akama


Unadon Di Pane E Mosto Di Fichi


Hirohito Akama and Domenico Ottaviano make a toast at
Trabucco Da Mimi in Peschici, Puglia, Italy