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人間国宝・藤沼昇氏大型インタビュー竹の声を聴き
作品創作を

人間国宝・藤沼昇氏が10月25日、イリノイ大学アーバナ・シャンペーン校キャンパス内にある日本館で、竹かご作りのワークショップを開いた。また、27日にはシカゴ美術館で講演会を行った。
ニューヨークのメトロポリタン美術館に招聘され、実演や講演を行った藤沼氏は、その帰りに佐藤昌三・同大学名誉教授の要請に応えシャンペーンを訪れたもの。

ワークショップ

竹を編んでかごを作ると言っても簡単ではない。藤沼氏は標高1000m以上の所に生える強い竹を四つ割りにし、内側の肉の部分を取り除き、鋭いエッジでケガをしないようにペーパーをかけ、底の部分を六角形に編んだものを用意していた。これを編む前に24時間水に浸けておくと竹に柔軟性が出る。

ワークショップでは茶道や書道など日本文化を学ぶ佐藤氏の生徒15人が竹かご作りを体験した。

藤沼氏は「作品というのは作り手の気持ちがそのまま出てくる。今回は15人のキャラクターがそれぞれ出ていた。

個性が出る良さは何かと言うと、素材なんですね。竹の素材一つ一つに個性があるから、それを生かして上げること。竹のキャラクターが作り手を勝手に動かしている。だから同じ物は出来ない」と語る。

また、藤沼氏は「make」と「create」という言葉を使って説明した。前者は工作することであり、後者は創作すること。「創作には自分自身のオリジナルな考えがないとダメ。工作は上手く作るというテクニック。今回のは創作だから、作り手が竹の気持ちを聞いて、その特性を自分の気持ちに合わせて生かせば、15人のキャラクター通りの物ができて行く」と語った。

佐藤氏は「相手の心を生かして自分の心に添えて行くという日本的な考え方を、竹を編むと言う事で体験する、一生に一度の経験だった」と語った。

藤沼氏とシカゴ 

藤沼氏は2001年にネイビーピアで開催されたSOFA(Sculpture Objects & Functional Art)エキスポに招待され、実演している。その様子はテレビのニュースでも報道された。

その後米国のエイジェントに出会った藤沼氏は、直径約80cmの大型の竹かご作品を販売目的でエイジェントに預けていた。しかし、4年経っても売れなかった。
そこで藤沼氏が、米国で収集家の一番多い町はどこかとエイジェントに訊ねたところ、シカゴだとの返答があった。
藤沼氏が2008年にシカゴ美術館にその作品の寄付を申し出たところ、興味を示したのが同美術館のアジア担当キューレーターのジャニス・キャッツ氏だった。藤沼氏はキャッツ氏の要請によりシカゴ美術館を訪れ、実演を行った。その時に佐藤昌三氏が通訳を務めてくれた。

この時藤沼氏はシカゴ美術館で作品展ができないかと、30枚の作品の写真を持参していた。その中から同美術館への寄贈を申し出ると、キャッツ氏は毎年3ヶ月間の作品展示を提案してくれた。
同年キャッツ氏は、日本美術の収集家ロジャー・ウェストン氏を伴って栃木県にある藤沼氏の工房を訪れた。藤沼氏は自らのギャラリーから22点を選んでシカゴ美術館に寄贈した。
シカゴ美術館で藤沼氏の作品展が6ヶ月間実施されたのは2011年だった。以後藤沼氏は作品の寄贈を続け、シカゴ美術館は現在38点を所蔵している。藤沼氏は100点に増やしたいという。
現在は同美術館の日本美術ギャラリーに竹かご作品の常設展示スペースが設置され、藤沼氏の作品が展示されている。

藤沼氏の作品はシカゴ美術館の他、大英博物館、メトロポリタン美術館、MOA美術館、東京国立近代美術館などに所蔵されている。

藤沼昇氏の生き方:
独占インタビュー

Q:最初、カメラマンを目指したそうですね。

藤沼:プロになるために6、7年はアマチュア・カメラマンをやっていました。アメリカ出張のチャンスがあるからシンガーミシンに設計士として入りましたが、50歳になるまで行けないことが分かって辞めました。次ぎにニコンに入って、会社の広報誌には私の写真が載っていました。
あっと言う間に評価が出て、カメラのセンスは良かったと思います。だけど有名になるには有名モデルの写真を撮らないと。そのお金を出してくれる人がいたら、カメラマンになっていたでしょう。

Q:転機は?

藤沼:札幌オリンピックの時にスキーを初め、1年間に50日は滑るようになりました。それからモンブランへ、アルプスの写真を撮りたくて。
標高3800m、針の山と言われるスイスのツェルマットにゴンドラで登りました。眼下に広がる銀世界を自分の目では一望に見渡すことができるのに、カメラでは3回に分けないと撮れない。見ただけで自分の考え方が第三者に伝わるようなものが素晴らしい事だと思っていたので、それでカメラは止めました。

3週間のヨーロッパ旅行のうち、最後の数日はパリでルーブル美術館や凱旋門などを見て回り、モンブランで友達になった人の家にも行って話を聞きました。
その時に、日本には世界のどこに持って行っても恥ずかしくない、凄い文化があると思いました。その時私は27歳でした。

Q:それで竹工芸を?

藤沼:それは考えていませんでした。日本文化を継承しようと思って、いろいろな文化教室に通いました。
千利休のお茶の文化を勉強していると、お茶をやるのに十職という世界があって、たくさんの職人が関わっていることが分かりました。陶芸や漆は多くの職人がいるけども、竹工芸をやる人が少なくなっているので、私がやろうと思いました。
兄の哲学に30歳までにやりたい事を決めればプロになれるというのがありました。私は30歳の誕生日に初めてナタを持って竹を割りました。

器用貧乏になるな!

Q:30歳まで自分の仕事を模索するのは贅沢な生き方だと思いますが、そこに至るまでのお話を聞かせて下さい。

藤沼:私は栃木県の那須の生まれで、江戸時代の先祖は館馬(たてば)をやっていた。人が宿に泊まって、その人達の馬を管理するところが館馬。次ぎに下駄屋をやっていて、江戸っ子が履くような下駄をつくる手先の器用な人でした。そういう人はいろいろな事をやり過ぎて貧乏になる。
小さい頃に「お前は器用貧乏になるな。顔がそのおじいちゃんにそっくりだ」って言われました。手先の器用な人はいろいろな事が出来るから、本業が分からなくなる。そう言う危険性があることを、小さい時に教わりました。

Q:それで竹工芸に絞ったのですか?

藤沼:いいえ、ざる屋さんだけは一生ならないだろうと思っていました、近所にたくさんありましたから。ざる屋さんは尊敬されません。あまり勉強しなくてもざるやかごが編めれば生活に役立つという程度ですから。 
Q:どんな少年だったのですか?

藤沼:親から褒められることを期待しない、兄姉と比べられることが大嫌いな子どもでした。
小学校1年の夏休みに、1メートル四方の中に紙粘土でネズミを100匹作って、猫の大きいのを作って、それに鈴を付けるイソップ物語をテーマに作品を作りました。町で優秀賞をもらって、県でも優秀賞をもらって、学校では1年生の二学期の初めに2000人の生徒の前で表彰状をもらいました。
自宅に戻って母に見せたら、ポイッと投げたんです。「うちは全員もらって来ているから」って。それから親に褒めてもらいたいとは思いませんでした。
中学になると、先生からお前の兄姉は優秀だったと比べられて腹が立ちました。兄とは同じ高校に行きたくないと、新しく開校した工業高校に行きました。

人間って褒め殺しが一番怖い。僕はバッシングを受けて生きてきたから、褒められると言う事はそんなに期待していない。自分が今できることを精一杯やるのがくせで、トランペットは1日で吹けるようになりました。それで胃痙攣を起こしましたが。
高校は私達が一期生だったので、我々がルールを作ることができて比較的に自由でした。先輩風を吹かせずに尊敬される先輩とはと考える校風でした。我々はエレキバンドを最初に作りました。高校生活は楽しく、先生が驚くほど成績が上がりました。

社会人になってからは、15人のメンバーでアコースティックギターのグループを作りました。栃木放送で正月に演奏が流される程になっていました。メーデーにはアルトサックスを吹きながら町中を行進したり、スキー、スケート、ホッケー、いろいろな事をやりました。自分をどうやって見つけ出そうかと、模索していたんです。

うちの親は大工でした。父の弟がゼロ戦で種子島に不時着して、戦後は修行して建具師になりました。大工道具はたくさんあるから、小さな時から道具の使い方を教わっていました。だから工作は抜群に強かった。

高校の時は設計図を書けばクラスの代表になっていたし、手先を使うことは全然怖いとは思わなかった。でも世の中の仕組みは全く分からない。自分がやりたいことが何だか分からないし、ずーっと探し求めていました。

竹工芸家への道

Q:遂に見つけた自分の道に入り、八木澤啓造氏に師事されたと聞いています。

藤沼:先生とは1年半の付き合いしかなかった。もう上手だから来なくていいって。あと2年間と、泣いて居させて欲しいと言ったのですが、ダメでした。

だから殆ど独学です。一番勉強したのは、こう言うものを作るのに美しいと思うか、力強いと思うか、まずこの2つの分け方。竹の繊維はシンプルなんですね。だから作品を作っている人の気持ちが同調するというか、移るというかね。
当時、自分の作品をコンテストに出していました。しかし、評価する人が私よりも40歳も年上の人なので、見方が違う。コンテストは非常に難しいと思いました。何度もコンテストに出して落選した作品がシカゴ美術館にはたくさん入っています。
今は収集家の人が評価します。ある時収集家の考えと自分の考えが合致している事が分かりました。だから、自分の考えを伝えられるような、自分自身をコントロールしていることが重要だと思います。

Q:竹工芸家として生活できましたか?

藤沼:私の竹かごは最初から売れました。人の懐に入り方が上手いんですね。可愛がられるように生きてきたんですよ。だから買って頂ける。
私の作品を買ってくれるアメリカのコレクターというのは、どこかでビジネスを成功した人。そう言う人は(価値の)読み取りが早いですね。

人間国宝

Q:2012年に文部科学省から重要無形文化財保持者(人間国宝)として認定されました。

娘・啓子:肩書きがあるから人が寄ってきます。今まで無縁だった教育の方々とも非常に関わるようになって来て。私達にとっては嬉しいことで、必要とされれば精一杯頑張ろうと、忙しい中で一生懸命にやっています。
役職について欲しいという話もたくさんありますが、殆どお断りしました。自治体で名誉市民を受けて欲しいと言われました。すると年金が年間20万円あります。それは自治体の税金から出ているのでお断りしましたが、どうしても受けて欲しいと言う事だったので、それで基金を立ち上げて、絵の展覧会を開催して子ども達を美術館に連れて行くなど、子ども達のために使って頂いています。こちらでは年金分の税金だけをお支払いしています。

Q:人間国宝になって作品の傾向は?

藤沼:変わってないが、制作するのが真剣になりました。一作一作、それがこの世の中に残っていくから、そういう生活態度にしています。

ここ20年から30年のテーマは「気」。気力の「気」、力強いパワー。力強さと繊細さを同時に表現しようとする意図が私の作品に表現されています。
力強いというのは、私個人が力強いだけではできないんですね。竹そのものが持ってる力強さというものを引き出すと言う事です。
竹と笹で800種類あります。大きな竹は非常に細かく裂くことができて、繊細なかごができる。
それに比べ、標高1000メートル以上にある竹は分厚く積もった雪に耐えるという野性味があるのです。

私は72歳になりましたが、60歳台になって気付いたことがあります。
人間には五感があります。一番は味覚でしょう。美味しいものを食べたいと思ってレストランに行くと、レストランのドレスコードに引っかかるところがある。味覚を成長させるとファッションまでしっかりしないと美味しいものを食べに行けなくなる。
素敵な作品を作りたかったら自分のファッションまでも重要になってくるので、五感をしっかりと成長させるようにすると制作が良くなることに60になって気が付きました。

今は私の作品が自分の思いをアピールしているものですから、それが見る人に伝わって、コレクションして頂くことになりました。
今はもう安心して、どうしたら自分の考えを伝えられるかという事だけに集中しています。

Q:ありがとうございました。


Living National Treasure of Japan, Noboru Fujinuma, gives a lecture at
the Art Institute of Chicago.

The below basckets are works of Fujinuma




















Noboru Fujinuma answers Chicago Shimpor's interview.