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人の良いところを見て、憎まない努力を
ホロコースト生存者サミュエル・ハリス氏が語り継ぐ


ホロコーストの生存者、サミュエル・ハリス氏を含む13人が体験談を語る3-Dホログラムが10月29日にイリノイ・ホロコースト・ミュージアム&エデュケーション・センターで公開された。ハリス氏は同ミュージアムのプレジデントであり、創設者の一人。ユダヤ人迫害が始まった頃に子どもだったハリス氏は82歳になる。3-Dホログラフは、生存者が語る体験談を永久保存し、見る人を鼓舞し、憎悪、偏見、無関心、大虐殺に対して行動を起こさせることを目的に、最新技術で制作されたもの。

 3-Dホログラフは同ミュージアム内の「Take a Stand Center」と名付けられた小劇場で上映されている。映像は本人と見間違えるほど鮮明で、視聴者が質問すればそれについて答えてくれるという相互関係があり、まるで生存者が直接話しかけているように見える。
上映後視聴者からは、子ども時代の経験、家族の行方、米国へ来た経緯、収容所生活、大虐殺再起の可能性など、多くの質問があり、ホログラムのハリス氏が各質問答えた。
ハリス氏によると、2000の質問に対する答えが用意されているという。

 ホログラムの撮影はカリフォルニアで5日間行われた。朝から夕方まで球形の部屋に入り、3000個のライトに照らされ、113台のカメラで収録が行われた。ライトの熱で汗をかき、何度もシャツを着替えなければならなかったという。

 5日間の収録は肉体的にも辛いものだったが、余りにも個人的な質問が多く、答える精神的な苦痛も大きかった。「私は来年83になる。最後の生き残りだ。将来のためにやらなければならないと感じた。これの良いところは、一度私が話し始めると誰もそれを消したりできないこと。そうでなければ歴史の保存にならないだろう」とハリス氏は語った。

サミー:ホロコーストを生き延びた少年

 サミュエル・ハリス氏はユダヤ人迫害が始まった時から戦慄するような生存体験、過去に蓋をした青年期、そして記憶を一つずつ検証して行った壮年期、ホロコースト・ミュージアム建設に尽力する引退後の活動を「サミー:ホロコーストを生き延びた少年」という本にしている。
この「サミー」は引退した日本人ビジネスマン・植田周治氏により全文が日本語に翻訳され、出版されている。アマゾンで購入できる。

 シュメラック・ジェズニックがハリス氏の元来の名前で、サミーと呼ばれていた。
サミーと家族はポーランドのデンブリンに住んでいた。ドイツ軍がデンブリンを占領した1939年、その時から総てが変わり、デンブリンはゲットーと化した。

 1942年、デンブリンのユダヤ人達は家畜用貨車に積み込まれるために並ばされていた。7歳のサミーは、大人の足が森のように自分を囲んでいたのを覚えている。
突然父が「走れ!」とサミーを列から押し出し、レンガの陰を指した。その時から恐ろしい生活が始まった。父や家族とはその後一度も会うことはなかった。

 大人になっていた姉のローザがサミーを生かしてくれた。ローザのアレンジでデンブリンの収容所に潜伏することができた。バラックの間には逃亡して捕まったユダヤ人が吊されていた。サミーはトイレに行けずベッドを濡らすしかなかった。

 その後、チェンストホーバの収容所に移送された。飢餓状態は日常茶飯事だった。9歳になっていたサミーは、貨車に積まれたジャガイモを盗みに行った。それは鉄条網をすり抜けられる小さなサミーの仕事だったとハリス氏が話し始めた。

 ある夜、ジャガイモを盗みに行ったサミーは右腕をドイツ兵に掴まれた。ピストルが額から10センチぐらいの所にあった。サミーは凍り付きドイツ兵を見つめた。その時、ドイツ兵が腕を放した。「もう半狂乱でドイツ兵に背を向けて走り始めた。本能だった。ドイツ兵が追いかけて来た。もう命がけで走った。そこにある溝に飛び込み、向こう側にどうにかよじ登った。そしてドイツ兵が追いかけるのを止めたのに気が付いた」とハリス氏は語った。

解放の日

 ハリス氏は1976年の大晦日の夜、家族でディズニーワールドのシンデレラ城の前に立っていた。明るい光が空を照らす中、突然に解放された時のことが頭に浮かんだ。

 チェンストホーバ収容所の夜空にいろいろな光が交錯していた。ロシア軍が町に入り、発砲していた。壁の上にいるドイツ兵の顔に光が反射しているのが見えた。ユダヤ人達は見張り兵を引き摺り下ろし、逃がしてやった。
「我々はともかく飢えていた。男達がナチのキッチンに行って、私には小型のフットボール大のバターをくれた。私はそれにかぶりついて、全部食べた。それからとても気分が悪くなったけど、解放されて初めての本当の食べものだった」とハリス氏は話す。

 解放の喜びは束の間だった。収容所の外にはドイツ兵やロシア兵の死体がゴロゴロしていた。サミー達は凍える道を歩いてデンブリンに戻ったが、安住の地はなかった。

人の良いところを見て、憎まない努力を

 ハリス氏は少し遠くを見つめ、人間味によって虐殺を免れた時の事を話し始めた。

 デンブリン収容所からチェンストホーバ収容所に着いた時、大人達は右の方に、5人の子ども達は左の方に分けられた。子ども達は森へ連れて行かれ、銃殺される運命にあった。実に150万人の子どもが虐殺されている。

 第一次世界大戦の時、オーストリア軍で戦ったユダヤ人がチェンストホーバ収容所にいた。その時に命を救った男が今はドイツ兵として同じ収容所にいた。そこで2人は互いに気付き、友人となった。そのドイツ兵を通して、ユダヤ人男性はナチの上官からサイン入りの手紙をもらっていた。

 そのユダヤ人男性にはサミーぐらいの娘がいた。その娘も左に分けられた5人の子どもの1人だった。

 ユダヤ人男性はその手紙を見せながら、収容所の男達と激しく交渉した。遂に折れた収容所の上官が「娘は一緒に収容所の中に連れて行っても良い」と言ったが、ユダヤ人男性は「(子ども)全員かゼロだ!All or none」と迫った。自分の娘の命を賭けたのだった。

 こうしてサミーは救われ、数少ない子どもの生存者の1人となった。

 ハリス氏は著書「サミー」の挨拶の中で、「我々がすべき事は、どの人に対してもその人の良いところを見つける為に、愛する方法を見つける為に、そして憎まない方法を見つけ出す為に、常に努力をすべきだということです」と書いている。

 ハリス氏は「植田氏が上記の文章を読み、日本の人々と分かち合いたいと思った。彼は私にとってもう1人の杉原(千畝)氏だ。大変な時間をかけて翻訳をしてくれた。一体何人の人がこんな大仕事をしてくれるだろうか」と語った。

 植田氏は2012年に「サミー」を読み、ハリス氏の体験に震撼とする衝撃を覚えた。原爆の5年後の広島に生まれた植田氏は、長引く被害者の苦悩を見ている。「ハリス氏の体験と重なるところがあったかも知れない」と話す。民族問題や国際交流に関心があった植田氏は、「サミー」の翻訳を申し出た。翻訳のためにユダヤ人の教義や生活を研究し、1年半をかけて修正を繰り返しながら翻訳を完成させた。

 リトアニアの総領事だった杉原千畝氏が日本を経由するトランジットビザを発行し、6000人のユダヤ人の命を救ったことは日本全国で知られることになった。
スコーキーにあるホロコースト・ミュージアムには杉原ルームが常設され、同氏に対するユダヤ人の謝意を表している。
これに加え、命を大切にした杉原氏の決断を子ども達に伝えるため、ロッカーに杉原氏他の情報が設置されている。
子ども達が毎日学校で開くのと同じ造りのロッカーを開けると、杉原氏の説明が出てくる。そこにはいくつかの質問があり、正解を選ぶとロッカーの下のドアが開き、更に多くの説明が表示される。
ハリス氏によると、学校の生徒の同ミュージアム訪問はイリノイ州法で義務付けられており、毎日約700人の生徒が訪れているという。

Illinois Holocaust Museum & Education Center
9603 Woods Dr., Skokie, IL

開館時間:
月-日 10 a.m. - 5 p.m.
木曜日は8 p.m. まで
入場料:
一般$15、5-11歳$6、学生12-22歳 $8、65歳以上 $10
(チケット売り場は閉館1時間前にクローズされる)
詳細:
www.ilholocaustmueum.org又は847-967-4800


Sam Harris poses for a photo in front of the Take a Stand Center in the Illinois
Holocaust Museum & Education Center in Skokie



A rocker room which exhibits Chiune Sugihara's works in the Illinois
Holocaust Museum & Education Center



The inside of the rocker where Chiune Sugihara's works are recorded.