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ジーン・ミシマ氏に旭日双光章
日系人の歴史を通じて一般社会にインパクトを与える

 日系人歴史協会のプレジデントで、日系団体を括る日系人評議会の会長を務めたジーン・ミシマ氏が秋の叙勲で旭日双光章を受章し、授与式が12月6日に総領事公邸で行われた。
伊藤直樹在シカゴ総領事は「ミシマ氏は日系アメリカ人の歴史を保存し、日米の繋がりの構築に寄与し、シカゴの様々な組織とのコネクション作りに尽力し、1人のリーダーとして、教育者として、家庭の母として貢献を続けた」と称えた。

 伊藤総領事によると、ミシマ氏の先祖は1905年に広島からカリフォルニア州に入植した。ミシマ氏が6歳の時、アリゾナ州のギラ・リバー強制収容所に収容され、1944年に収容所を出てシカゴに定住した。
成人したミシマ氏は教師となり、シカゴの公立校、特に特別教育が必要な生徒達に教えた。その後カウンセリングで修士号を取得し、日系アメリカ人コミュニティの活動にも専念した。  ミシマ氏は子どもを育てる一方、日系人評議会や二世アスリート協会などで活発に活動し、コミュニティの祭りやスポーツイベントでは「必ず見かける人」となった。

 徐々にコミュニティーのリーダーシップを取るようになり、ここ数年はシカゴ日系人評議会の会長を務めていた。アーリントンハイツで開催された日本祭りでは、シカゴ日本人会と共に共同会長を務めた。
ミシマ氏の重要な活動の一つは約30年に亘るシカゴ日系人歴史協会にあり、1997年から今日まで20年に亘ってプレジデントを務めて来た。
その活動の一環としてミシマ氏はシカゴ地区の小学校、中学校、大学、図書館、料理教室、博物館などで講演し、ミシマ氏の家族や日系コミュニティの第二次世界大戦前後の経験を通して、人権侵害や人種差別について語り続けた。
また、ミシマ氏は折り紙や盆踊りなどの日本文化紹介促進でも尽力して来た。さらに、日系二世達のスポーツ活動も展示会を通じて紹介してきた。2003年にはシカゴ歴史博物館で、2009年には在米ポーランド博物館で展覧会を実施した。

 近年では、シカゴ市ノースサイドにあるアルファウッド・ギャラリーで開催された日系人強制収容を一般社会に伝える「Then they came for me」の展示に尽力した。ミシマ氏自身も証言者としていくつかのビデオに登場している。 ミシマ氏が推進した展覧会で大きな影響を残したのが1995年のスミソニアン博物館がシカゴで開いた展覧会「Strength and Diversity」だった。これは1885年から1990年までの日系人の生活実態を表す展覧会で、個々人から100ドルずつの寄付により実施可能となった。同展覧会はフィールド・ミュージアムで開催された。

 この展覧会が切っ掛けとなり、1998年にフィールド・ミュージアムでカルチャラル・コネクション・プログラムが発足した。これは2008年にシカゴ・カルチャラル連盟となり、シカゴ地区の35のエスニック博物館やカルチャー・センター、歴史協会などが加盟した。これにより、シカゴ地区のエスニック・グループの存在が一般社会にインパクトを与えることになった。
ミシマ氏は歴史的書類や物品を自宅の地下室を空けて保存するなど、公私の枠を超えて日系コミュニティの歴史保存に献身して来ている。

 旭日双光章を授与されたミシマ氏は、「こうした活動ができたのは皆さんのご協力のお陰」だと感謝の気持ちを述べた。
ミシマ氏はコミュニティ活動の始まりは、ヨージ・オザキ氏に説得され、平和テラスのボードメンバーとなったことから始まったと語った。
その後シカゴ日系人歴史協会のメンバーとなり、後にプレジデントとなった。そこからシカゴ日系人評議会、シカゴ・カルチャラル連盟などの多くの活動が続いた。

 ミシマ氏は無償で協力してくれた人々の名前を挙げ、「シカゴ日系人歴史協会の活動理念、日本・日系人の第二次世界大戦中の経験を一般社会に教育すること」を柱に活動できたと語った。
また、14歳でアマチ強制収容所を抜け出したリッチ・ヒダカ氏に触れ、多くの生徒達の興味をそそる話だったと述べた。ヒダカ氏夫妻は長年の活動協力者だった。
また、新一世の人々にも触れ、彼らと共に協力することで日本・日系社会のより近い結びつきに繋がったと感謝の気持ちを語った


ジーン・ミシマ氏(左)と伊藤直樹総領事