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本多猪四郎監督のキャリアと人間像
世界の映画ファンに知らせたいと本を出版、
エド・ ゴジザースキー氏

• 本多猪四郎(ほんだ・いしろう)監督の生涯と人となりを描いた「Ishiro Honda A Life in Film, from Godzilla to Kurosawa」の共同著者、エド・ゴジザースキー氏の講演会が2月8日、シカゴ日米協会が事務所を置くビルの会議室で開催された。主催者は同協会。

• 本多監督は1954年の最初のゴジラ映画の監督として知られるが、監督を目指していた20代前半に徴兵され、226事件に巻き込まれたことが不運だった。本多氏は除隊後にも2度応召され、通算8年間の兵役を務めた。このため、同世代だった黒澤明監督や谷口千吉監督よりも大きく遅れ、1951年、40歳の時に「青い真珠」で監督デビューした。黒澤監督は生涯無二の親友であり、1952年には本多氏3作目の「港へ来た男」を通じて特撮の円谷英二監督と懇意となった。

• 本多氏は空の「大怪獣ラドン」、「モスラ」、「キングコング対ゴジラ」、「マタンゴ」、「モスラ対ゴジラ」、「メカゴジラの逆襲」など多くのSF映画を監督した他、「この二人に幸あれ」など人間味溢れる多くの映画作品を残している。監督した映画は46本、その他テレビシリーズの「帰って来たウルトラマン」や「流星人間ゾーン」なども監督している。
• 後年は黒澤監督の「影武者」や「乱」、「まあだだよ」などで助っ人を務め、81歳の逝去前まで映画製作を愛した。

• ゴジザースキー氏は2007年、日本で特撮についてのドキュメンタリー映画を製作中に本多監督の息子、本多隆司氏に会った。海外の人々にも父の仕事と人間性を知って欲しいという隆司氏に賛同し、映画評論家のスティーブ・リーフル氏と共に同書を書き出版した。同書は隆司氏を始め本多監督を知る多くの人々の話から、本多猪四郎監督のキャリアと人間像を描き出している。

• ゴジザースキー氏はパトリック・ガルヴァン氏によるインタビューの中で、本多監督は黒澤、小津、成瀬などの監督ほど世界で名前が知られていない。だが、本多氏の作品とは知らずに多くの本多氏の映画を見ている。また、1954年のゴジラが日本映画の世界進出の大きな助けとなり、本多氏の作品が多額の外貨を稼いでいる。宮崎駿監督が出て来るまで、本多氏は商業的に最も成功した監督であり、その作品と人間像は世界の人々に知られるべき事だと著書出版の目的を語っている。

ゴジザースキー氏が語る本多猪四郎像

• 本多氏は1911年、山形県生まれ。父は龍傳院の僧侶で、母・みよとの間に生まれた5人兄姉の末っ子。亥の年まれの四男という事から猪四郎と名付けられた。父が東京高井戸にある医王寺の住職となり、小学校3年生の時に高井戸へ引っ越し、6年生の時に神奈川県川崎市に引っ越した。

• 3人の兄の影響を受け文学や科学に親しむ一方、兄達に連れられ映画劇場に通った。特に徳川夢声が弁士を務めた無声映画「最後の人」には強い感銘を受けた。

• 同映画を鑑賞してしばらく経った頃、本多氏は映画のロケに遭遇し、撮影を采配している監督に興味を持った。

• 攻玉社旧制中学卒業後、創設間もない日本大学芸術科映画科に進学した。ここにはまだ充分な設備もなかったが、数少ない映画産業の人々が講義をしていた。
• 日大の講師であり、P.C.L.(後の東宝)の支配人・森岩雄氏に招かれ、映画青年の集まり「金曜会」に参加した。そこには谷口千吉、亀井文夫などがいた。
• 森氏に誘われ、日大卒業前にP.C.L.映画製作所に採用され映画製作に関わるようになった。

• その頃、本多氏は山本嘉次郎監督による監督トレーニング・プログラムに入った。しかし、監督やアシスタントになる訓練と言うよりも、何でもやって覚えろという事だった。
• 訓練プログラムであるため給料は微々たるものだったが、映画好きだからこそ皆がそこにいた。
• 訓練生の生活は、昼間は訓練プログラム、寮に戻ればもっぱら酒を飲みながら映画談に花を咲かせた。寮で本多氏と同室だったのが、同じくP.C.L.のプログラムに入っている黒澤明氏だった。

• 本多氏は寮のパーティーで、スプリクター(記録係)をしていた山崎きみ氏と知り合い、1939年、28歳で結婚した。きみ夫人は裕福な家庭の出身で、本多氏との結婚は認められなかった。きみ夫人は父に勘当されている。

• 本多氏は自らの経験を1957年の映画「この二人に幸あれ」に織り込んでいる。親に反対された二人がお寺で慎ましい結婚式を挙げるが、反対した両親も娘が気がかりで物陰に隠れながら結婚式を見に来る。この映画は伝統価値と自分の意志を貫こうとする新世代の若者のストーリーであり、SF映画以外の本多氏の映画には、この様な人間模様が豊かに描かれている。

• 本多氏に大きな影響を与えたのは、戦争での経験だった。 本多氏は35歳になるまで断続的に3回徴兵されている。

• 24歳の時に陸軍に入隊し、翌年二・二六事件に遭遇した。その煽りを受けて満州に派遣され、軍役は長引いた。26歳で除隊しスタジオに戻ったが、28歳で応召された。31歳で除隊したが、33歳で再び応召された。中国で終戦を迎え、半年の捕虜生活を送った後、復員したのは35歳の時だった。温厚な本多氏だが、3度目の時には流石に不公平だと不満を漏らしたという。

• 本多氏は中国で多くの残虐行為を見た。なぜ人が人を殺さなければならないのかと胸を痛めた。
• 本多氏の助監督を長く務めた梶田興治氏も応召されていた。二人は良く戦場の話をしていたらしく、本多氏は鉄砲を撃てと命じられた時には意図的に空に向けて発砲していたという。少しでも人の命を取る可能性があることは、したくなかったのだという。

• 本多氏は約1年間、慰安所の世話を命じられた。本多氏はこの経験を1960年代にエッセイに書いている。この経験がどれ程本多氏に深く影響しているか、エッセイを読めば分かるという。

• この様な悲惨な戦争の中で、本多氏の正気を支えたのは「家族の元に帰りたい」、「生還して映画を作るんだ」という事だった。

• 終戦時、本多氏は中国人の捕虜となったが、彼らに敬意を抱かれていた。彼らは「日本に帰らず、ここにいた方がいい。我々は歓迎するから」と言ってくれた。しかし、東京は空襲を受けて家族の生死も分からない。本多氏は半年後にようやく日本に戻った。

• 本多氏の留守中、きみ夫人と本多氏の実家に起きた事は、非常に感動的な物語だという。ゴジザースキー氏は、「私の本のその部分を読むことをお奨めしたい」と語った。

• 東宝に戻った本多氏は、35歳であることから経理の仕事を奨められた。だが、監督になって映画を作るんだと一歩も引かなかった。そして1951年、40歳になって「青い真珠」で監督デビューを果たした。これは本多氏が書き監督したもので、海女の物語。昔ながらの生活を守る海女達とよそ者がもたらす、伝統と新しいものの対立を描く非常に良い映画だという。

• 本多氏のSF映画以外で、青い真珠が一番好きだというゴジザースキー氏は、この本によって、クライテリオン・コレクションや芸術映画関係者が本多氏のSF以外の映画の価値見出してくれることを望むと語った。

ゴジザースキー氏

• ゴジザースキー氏は子どもの時からSF映画を見ていた。米国で上映されたものはすべて見たという。だが、本多猪四郎監督の映画だと知ったのは、後のことだった。

• ゴジザースキー氏は、本多氏のSF映画は単にSFというだけではなかったと話す。子どもの頃、既に冷戦が始まっていた。ソ連の指導者がUNの演台を叩きながら、アメリカを葬ってやると言っていたのをテレビで見るにつけ、核戦争の可能性に気付いていた。
• 一方、本多監督のSF映画を見ると、世界の見え方が違っていた。そこには宇宙戦争があるが、世界の人々が協力して戦っていた。その印象は強く、世界はこうあるべきだと思ったと語った


「Ishiro Honda A Life in Film, from Godzilla to Kurosawa」の
共同著者、エド・ゴジザースキー氏



本多猪四郎監督(左2)、ゴジザースキー氏のプレゼンテーションより