日本語メインに戻る

日系人最初のフォトジャーナリスト、
ジュン・フジタを掘り起こす
「ジュン・フジタ:忘却」展覧会カタログ出版記念会

• 844人の死者を出した1915年のイーストランド客船の転覆事故、1919年の人種暴動、1929年のバレンタインデーの大虐殺はシカゴ史でよく知られる大事件だが、その現場を撮影したフォトジャーナリスト、ジュン・フジタの名前は2000年代になるまで殆ど知られることはなかった。
• フジタは写真だけでなく、英語による短歌にも才覚を発揮しており、シカゴのポエトリー雑誌に定期的に掲載されていた。

• シカゴのポエトリー・ファウンデーションでは2017年の1月から5月まで「ジュン・フジタ:忘却」と題した展覧会を開き、今回その延長として同展覧会のカタログを出版した。2月1日にはカタログの出版を記念し、定住者会(Japanese American Service Committee)でジュン・フジタの生涯と遺産についてのディスカッションが行われた。また、出席者には無料でカタログが配布された。

• パネラーは近松信子准教授(デュポール大学)、デイ・多佳子氏(歴史研究家)、グラム・リー氏(ジュン・フジタの甥の孫)、ネイディン・ナカニシ氏(カタログのデザイナー)、キャサリン・リトゥウィン氏(ポエトリー・ファウンデーションのキューレーター)、フレッド・ササキ氏(フォーチューン・マガジンのアート・ディレクター)。

• ディスカッションでは近松氏のリサーチによる発見、デイ・多佳子氏の研究によるフジタの生き方、グラム・リー氏によるフジタの回顧などが行われた。また、ササキ氏によるカタログへの執筆で、フジタの晩年とフローレンス夫人によるフジタの遺産保存努力、ポエトリー・ファウンデーションによるフジタの掘り起こしと展覧会開催の経緯が明らかになった。

• ジュン・フジタ(1888-1963)は十代でカナダに渡り、1915年までにシカゴに現れ、シカゴ・イブニング・ポストでフォトジャーナリストとして働いた。前述の重大事件だけでなく、アル・カポネ、アインシュタイン、複数の米国大統領などもカメラに収め、連邦政府の仕事にも就いていた。また、短歌も詠み、ポエトリー・マガジンに掲載されていた。自らの詩集「Tanka: Poems in Exile」を1923年に出版している。
• フジタはミネソタの遠島にキャビンを共同所有して長く住み、絵を描き短歌や俳句を詠んだ。そのキャビンは現在もVoyageurs National Parkに保存されている。没後は、多くの自然界の写真を撮ったインディアナ砂丘周辺に埋葬された。フジタについては渡米理由、短歌を触発したもの、渡米前のフジタなど、依然として多くの謎が残されている。

近松信子氏の発見

• デュポール大学で准教授を務める近松信子氏は、日本語教師として19世紀後期から20世紀初期にかけて一世が作った俳句や短歌に興味を持っていた。これらの詩は2つの言語の間に美しい繋がりを持っていると話す。フジタの短歌は日本の自然を彷彿させるという近松氏は、第二言語の英語でもフジタのように美しい短歌を詠むことができれば、日本語を学ぶ学生にも日本語で詩を詠むことができるだろうと考えたのがフジタに関するリサーチの切っ掛けだったと語る。

• かくして近松氏はフジタの生い立ちや日本語の短歌を探そうと、2017年7月にフジタの誕生の地に向かった。
• 近松氏によると、フジタの名前は藤田準之助。1888年に瀬戸内海にある向島で生まれた。1904年に17歳で北米に向かい、1906年19歳でシカゴに来た。1909年にはフジタの短歌がVerseというマガジンに掲載されている。

日本でのフジタ

• フジタは1904年に向島小学校を卒業している。後に妹のちよが渡米したフジタに書いた手紙から、フジタが高見山や千光寺、文学の小径を訪ねたことが分かり、近松氏は空と海というパノラマがフジタに心深くにあるのではないかという思いにき当たった。
• また、19世紀後期から浪漫的な近代短歌へのムーブメントが起き、尾道には浪漫派の詩人たちが集まっていた。短歌集「明星」も出版され、フジタもこの影響を受けたり、明星を読んで触発されたかも知れない。

• 近松氏はフジタの日本語の短歌を発見することはできなかったが、尾道で発行されていた複数の短歌集を見ることができた。
• この様な近松氏の調査が地元の関心を引き、中国新聞などで報道された。そして、学者、教育者、ジャーナリストらが集まりフジタについての認識を高めようという動きが出た。2018年の夏と冬には尾道の市役所と向島のコミュニティ・センターでフジタのパネル展覧会が開催された。フジタについては、出身地でも知らない人が殆どだった。

• 近松氏の調査で、フジタの遠縁の人が作った家系図から、フジタの6歳上の兄の名前が「ぎいち」だと分かった。ぎいちには6人の子供があり、その一人の子供(フジタの甥)が「けいいち」であることが分かった。その家系は聡明な人ばかりで皆東京大学の卒業生だと聞き、近松氏はさらに調査を進めた。すると、「けいいち」は東大の耳鼻咽喉科の医師であることがわかり、論文も見つかった。さらに調べると、フジタの甥の娘の「よりこ」さん、甥の孫のゆうすけさん、かおりさん、ひろしさんなど、フジタの兄の孫やひ孫を見つけることができた。

• よりこさんに会った近松氏は、「フジタが1950年代に日本に一時帰国し、フジタの甥と姪がフジタを連れて高見山に登ったという話を母から聞いている。アメリカからちょっと変人のオジサンが来たというのを聞いている」とよりこさんから聞いた。一方、グラム・リー氏はフジタの一時帰国を否定しているという。グラム氏は、もしも一時帰国していれば、その時の写真や手紙が残っているはずだと主張しているという。

デイ・多佳子氏の推察

• デイ氏は1917年にシカゴで出版された「The Japanese Invasion」という本を読んだ。その本から当時の様子が想像できるという。シカゴに住む日本人は300人程度の少数であったため、差別は最小限だった。だが、一般社会の一員として歓迎されてはいない。
• デイ氏は「あれだけの仕事をした人の名前がもっと認められても良かったと思うが、近年までゼロだった。だから今の言葉で言えば、マイクロ・アグレッション、白人側は完全にフジタを無視していたと思う」と語る。
• 一方、シカゴの日本人コミュニティもフジタには一切触れていない。フジタは意図的に日本人社会を離れてアメリカ社会に溶け込むことを選んだ。
• 西海岸では日系人が白人の会社に雇用されることはなかった。しかし、シカゴは違っていた。鉄道会社のプルマンや、ジョリエットにある鉄鋼会社でも日本人は雇用されていた。だが、白人に比べて給料が安いなどの差別はあり、日本人はそれに抗議できる立場にはなかった。差別がないように見えても、本当の意味で受け入れられていた訳ではなかった。それは無視であり、今日でも無視されることがあるとデイ氏は語る。
• この様に白人と同じ扱いを受けられないという差別はフジタにもあったかも知れない。「フジタは写真や詩を書くという自分の世界があったから、自分の美学を持っていたから、(白人に)媚びはしなかったと思う。ここでどう生き抜くかという自分の美学を持っていたというのは凄く羨ましいです。フジタは私にとってヒーローなんですよ」とデイ氏語った。

グラム・リー氏の回顧

• ジュン・フジタの甥の孫、つまり祖父がフジタの兄の息子であるグラム・リー氏は、フジタの没2年後に生まれた。フジタには会っていないが、家じゅうに本や詩集などのフジタの遺物があり、祖父はいつもフジタの話を聞かせてくれた。リー氏はまるでフジタが生きている人物のように感じていたという。
• リー氏は子供の頃、フジタを「カッコいい!」と思っていた。電気技術を学び無声映画に興味を持っていたが、市場規模が大きくない無声映画よりも、写真家として新聞社に仕事を得た。赤い縁取りのある黒のベルベットのケープをまとい、シルクハットをかぶり、シカゴシンフォニーに行ったり、祖父を連れて映画を見に行ったりしていた。また、シカゴの有名人、カール・サンバーグやアーネスト・ヘミングウェイを友達の数に入れていた。朝にアル・カポネやアイゼンハワーを撮り、夜にはジーン・ハーローを撮るような人だった。そして、バレンタインデーの虐殺現場には一番に駆け付けた。
• 真珠湾攻撃後、フジタや祖父の財産は凍結され監視下に置かれた。連邦政府と関係を持つ当時のシカゴ・イブニング・ポストの編集長がフジタを擁護した。「護ってやる」という編集長の言葉は、フジタがいかに人々の信頼を得ていたかを示しているという。
• フジタは祖父に2つの緑色のメタルの引き出しにびっしりと詰めたネガや詩集などを渡していた。エンジニアだった祖父はそれをきちんと整理・保存し、リー氏に渡した。
• リー氏は歳月をかけてネガから写真を再生した。3枚のネガを使うカラー写真もあったという。

• 実は、フジタの遺物は他にもあった。多くの詩集や写真は、建築物の写真家であるオーランド・カバンバン氏に委ねられていた。
• カタログにあるフレッド・ササキ氏の執筆によると、カバンバン氏からそれらの遺物がポエトリー・ファウンデーションに寄贈されたという。

• 経緯はこうだ。
• 1960年代初期、オークパークに住んでいたカバンバン氏は近隣に住むハワード・リーズマン氏にシカゴまで車に乗せてくれるように頼まれた。シカゴに住む友人の写真家を見舞うためだという。
• リーズマン氏と一緒に訪れたのは病床に着き衰弱したフジタだった。それを切っ掛けに、フジタのフローレンス夫人からフジタの複数の写真を保存してほしいと依頼された。フジタの没後、夫人は多くの遺物をカバンバン氏に託した。月日が流れ、宇曲歪曲があったが、カバンバン氏の夫人が当時ポエトリー・ファウンデーションが入っていたイリノイ大学シカゴ校の英語部に勤務していたことから、同ファウンデーションに遺物を寄贈することになった。
• フジタの短歌や写真の価値を知った同ファウンデーションは展覧会を企画することになり、グラム・リー氏との繋がりができたのだという。

• リー氏は「フジタの冒険的な生涯のストーリーは当時のアメリカの政治的動乱、社会、文化的悪戦苦闘への窓となる。フジタの遺産は人の心をとらえるシカゴの物語だけでなく、他に類を見ないミッドウエストの世紀半ばの、一人の移民のストーリーでもある」とカタログで語っている


タログ出版パーティーでジュン・フジタについて語り合うパネル出席者(左からネイディン・ナカニシ氏 、
デイ・多佳子氏、グラム・リー氏、フレッド・ササキ氏、キャサリン・リトゥウィン氏、近松信子氏



「ジュン・フジタ:忘却」展覧会カタログの表紙

パネルディスカッションに熱心に耳を傾ける、フジタに興味を持つ聴衆