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写真展「建築にみる江戸/東京」
西洋建築に生きる和風、日本伝統建築のDNA

• 珍しい写真展「建築にみる江戸/東京」が4月15日から30日まで、在シカゴ総領事館広報文化センターで開催された。これらの写真は1877年から1881年にかけて駐日イタリア大使として東京に滞在したB.ボラニ氏が撮影した写真50枚で、同氏が離任と共にイタリアへ持ち帰り「Assorted Japanese Sightseeing Spots」と題したアルバムに収めていたもの。これらの写真は近年になって発見され、日本カメラ財団が取得した。
• 今回の写真展は日本カメラ財団とメディア・アート・リーグの協力で開催されたもので、日本外では初の写真展となった。
• 撮影された建造物は既に失われており、明治維新後の江戸から東京への変転を見せる貴重なものとなっている。西洋建築物が建ち始める一方、大名の上屋敷などの建物を政府機関の建物に流用するなど、西洋文化流入と共に試行錯誤で新しい街づくりが行われる過渡期の東京の様子が伺える。

• 4月18日には同写真展のオープニング・レセプションが開催され、日本カメラ財団理事代理の伊藤ミロ氏による日本伝統建設についての講演、トーマス・ガウバッツ・ノースウェスタン大学助教授による江戸時代の裏長屋の生活と明治維新後についての講演、明治初期をイメージした新井春双氏によるソロ・バレエのパフォーマンスが行われた。

なぜ日本の西洋建造物に日本の趣を感じるのか
伊藤ミロ氏の講演

• 明治維新により近代化に着手した日本政府は1870年に産業省を設立し、海外から249人の人材を採用した。建築界では帝国大学工科大学を設立し、英国のジョサイア・コンダー氏の指導により辰野金吾を始め多くの著名な建築家を輩出した。

• 1872年の大火で丸の内、銀座、築地を含む銀座地区の大部分を焼失し、耐火性のある赤レンガ造りの建物が盛んに建設された。この赤レンガが明治文明開化のシンボルとなった。
• 西洋建設物が立ち並ぶようになったが、どこかに和風のイメージを感じさせるのはなぜなのか。伊藤ミロ氏は、日本の西洋建設物の中には日本伝統建設のDNAが生きているという。

• 6世紀の仏教伝来以来、木造建築技術が中国からもたらされ、大規模な寺院が建設されるようになった。以来、奈良の法隆寺に見られるように、木の柱と梁を組み合わせる洗練された日本建築技術が発展して来た。
• 屋根を上に向かってエレガントにカーブさせる六手先方、屋根を二重構造で支える小屋組みなどの技術が発達し、複雑な屋根をもつ寝殿造が建設されるようになった。複雑な屋根は、築城にも使われている。
• この寝殿造りの構造は、フランク・ロイド・ライト設計の帝国ホテルにも採用されている。また、迫り出す屋根の構造はロビー・ハウスやその他のライトの建造物にも見られる。

• 一方、武家屋敷に書院造が発展した。床の間、違い棚、付障子が特徴で、寝殿造りと共に、もう一つの日本伝統建築のDNAだと伊藤ミロ氏は語る。

• 柱と梁を組み合わせる日本伝統建設技術は、明治時代にも再発見されることになった。明治時代の近代建築物「富岡製糸場」(1872年建設)にも生かされている。
• また、木を組み合わせる日本の伝統建築は明治維新後の近代西洋建設に適用され、石とレンガ造りの西洋建築物に和風を感じさせるユニークな日本スタイルの「フォウ・オキシデンタル」を生み出した。

• 明治維新後、西洋建築が日本建設に大きな影響を与えた一方、日本建築も西洋の建築家にインパクトを与えた。フランク・ロイド・ライトを始め、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエなどの西洋近代建築家を触発し、ドイツの建築家ウォルター・グロピウスによるバウハウス・ムーヴメントも起きた。西洋の建築家を触発した日本建築のDNAは、第二次世界大戦後、日本の建築家達を触発することになったと伊藤ミロ氏は語る。

• その例として丹下健三による広島記念資料館や、村野藤吾による世界平和記念聖堂や日生劇場などがある。

• また、近代建築家の安藤忠雄、伊東豊雄、妹島和世&西沢立衛などの作品にも西洋建築物の中にも日本建築の風合いが生きている。

江戸、裏長屋の生活と明治維新後
By トーマス・ガウバッツ准教授

• ノースウエスタン大学で日本史を教えているトーマス・ガウバッツ准教授は、式亭三馬の本にある長屋の挿絵を見せながら、江戸の裏長屋の生活について話した。

• 江戸には120万から130万人が住んでいて、世界でも最も人口密度が高い町の一つ。おそらく世界最大の町だったとガウバッツ氏は言う。
• 裏長屋には地方出身者や様々な背景を持つ低所得者が住み、様々な方言が飛び交うメルティングポットだった。だが、長屋の敷地内で助け合う、一つのコミュニティを形成していた。働く女性が多いことから、女性の立場も強かった。

• 明治維新後、西洋文化が押し寄せ、西洋風のビルが建設されていく中、低所得層が住む長屋の生活は1923年の大地震まで、殆ど変わることはなかった。

• 一方、近代化により中産階級が出現し、新しい生活の場が形成されて行った。明治時代に入って中級・下級武士層がサラリーマン・クラスとなり、山の手に住むようになった。

• また、地方から教育を受けるために上京して来る若者たちが増え、下宿が広まった。特に未亡人の家には多くの部屋があり、下宿を提供していた。下宿では若者たちが新しい世の中について語り合っていた。下宿生活の様子が明治文学の中に描かれているという。

• 明治後期になると、アパートメント・ビルが建造されるようになった。最初のビルは1910年に建設された5階建ての木造建築の上野クラブだった。
• この様なビルは拡大する中産階級のニーズに応えるものだった。

• 江戸時代から続く裏長屋は深川辺りにそのまま残っていた。永井荷風の小説の中に長屋の人々の不安が描かれているという。1923年の関東大震災まで大きな変化は起きなかったが、ガウバッツ氏は、ただ取り残されていた訳ではないという。江戸時代と同じような役人のサポートもあり、近代化のエッジに押しやられた人々の間にも地元の文化があり、助け合いのコミュニティがあったと話した。

バレエ「荒城の月」
By新井春双氏

• 新井春双氏によるバレエは荒城の月に新井氏が振りを付けたもの。伊藤ミロ氏によると、古い日本を失う懐古の情と新しい日本への期待を西洋と東洋の文化の交差を含めて表したものだという。衣装も西洋の鎧に触発され、着物と帯の布地を使って伊藤氏が製作した。
• チェコ国立劇場バレエ団にも在籍していた新井氏は振り付けに当たり、20代の時の技術的な部分を戻す感じで、今までの経験をすべて投入したという。約1年をかけて準備し、当日のリハーサルでも修正するほど神経を使った。「出来上がった踊りは、ちょうどこの写真のようなものになったのではないかと思います」と語る。

• 新井氏によると、バレエダンサーの命は短い。ジャンプすれば着地時には体重の4倍の重さが足にかかり、ケガに悩むことも少なくない。また、30代半ばになれば「肩たたき」が始まり、パフォーマンスできるチャンスも与えられなくなる。
• 新井氏は「チャンスをあげればダンサーは育つ。それにケガは治る。だから自分から辞めると言わないで、ケガは絶対に治るから頑張ってやりなさい」と若いアーティストに伝えることが自分の役割だと思っていると語った


B.ボラニ氏撮影による元老院議事堂の写真(1875-1880年撮影、写真展「建築にみる江戸/東京」より)


大審院(写真展「建物にみる江戸/東京」より)


伊藤ミロ氏


第一国立銀行(写真展「建物にみる江戸/東京」より)




市ヶ谷門橋と旧尾張藩徳川家の上屋敷(写真展「建物にみる江戸/東京」より)


トーマス・ガウバッツ氏


新井春双氏のバレエ「荒城の月」