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一生かかって辿り着くテクニックの進歩を
10年間でやり遂げた人
石田徹也回顧展、12月14日まで

• 不慮の踏切事故で亡くなるまでの10年間に200点に及ぶ作品を描き続けた石田徹也(1973-2005)の回顧展「Self-Portrait of Other(他人の自画像)」が10月3日にシカゴ市内で始まった。12月14日まで、毎週木・金・土に開館される。展示作品は9月8日までスペイン・マドリッドにあるソフィア王妃芸術センターに展示されていたもので70以上の作品群。同回顧展はソフィア王妃芸術センターとハルステッドA&Aファウンデーションの協力により実現された。

• 回顧展会場となっているのは安藤忠雄がレンガ造りのビルを改築した659 Wrightwoodで、天に向かって吹き抜けるような空間に浮かぶように、各階のギャラリーが階段で連結されている。もちろん内部からエレベーターで上がることもできる。

• 回顧展初日の3日には、イタリア・ベニスの第56回ベネチアビエンナーレ、セントラルパビリオンの展覧会で石田の作品に惹かれ、マドリッドで展覧会を開いたソフィア王妃芸術センターのキューレーター、テレサ・ヴェラスケス氏が石田の超現実主義について説明した。

• また、石田徹也の兄・石田道明氏や、石田徹也の作品を東京で展示していた和田ファインアーツの代表取締役・和田友美恵氏も出席し、31歳という若さで没し、余り知られることのない石田徹也について話してくれた。

石田徹也回顧展:他人の自画像

• 石田徹也は日本の「失われた10年」と言われる時代に青年期を過ごした。経済復活のために押し寄せる人間軽視のオートメーション化や大量生産による消費主義が蔓延し、終身雇用という美徳が崩れ行く社会の中で、人々が感じる先行き不安や疎外感を絵に表し続けた。石田は作品の中で、個々の人権の尊さ、学校教育問題、日本の管理社会構造などを痛切に批判している。

• ヴェラスケス氏は「最初に一瞥すれば、石田の作品には近代の消費文化が見られる。「燃料補給のような食事」、「ベルトコンベア上の人」、マーケットのスナックフード(無題)などの作品は、西洋のアーティスト達の消費主義への懸念を分かち合っているように見える。しかし、よく観察して理解すれば、石田の作品には石田自身の時期と文化という唯一の質を持つ」と語る。ヴェラスケス氏は第56回ベネチアビエンナーレで初めて石田の作品を見た時「数多くのアーティストの作品が展示されている中で、石田の作品に目を引かれショックを受けた」と語った。

身近な人々が語る石田徹也

• 失われた10年の間に生きた石田徹也は、憂鬱の中で心に浮かぶものを感情的に絵にして行ったのか? 多くの引きこもりを生んだ日本の社会の中で石田も引きこもり、物体のち密な詳細を絵に描くことに心のよりどころを見出していたのか?

• 石田の兄の石田道明氏は「そういう引きこもりは全くないですね。普通の寡黙な青年で、友達もいましたし、画家仲間もいたし、バイトの仲間もいましたしね」と語る。当時東京在住だった道明氏は、相模大野に住む石田を時々訪ねていたという。

• 「彼は実際、(引きこもりなどを)狙いで描いてたところもあるんで。企画を立てて、こういうのも描きたいというところもあるので、客観的に見ていたと思いますよ。逆に言うと、引きこもりと思われるのは、彼としては『してやったり』なのかも知れない」と話す。

• 石田は4人兄弟の末っ子で、長男の道明氏は7歳年上。道明氏は在静岡県焼津市の一級建築士事務所「TETSU」の代表取締役、次男は銀行マン、三男は服飾デザイナーとして成功している。
• 石田の自立を引き受けていた画廊の和田氏は「だから僕も頑張りたいって言ってましたよ」と語る。

• 和田氏は石田徹也について、「人が一生かかって辿り着くテクニックの進歩を10年間でやり遂げた人」だと率直に言う。

• 和田氏は、石田は武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科を卒業した後、「デザイナーやイラストレーターではなく、自分はアーティストになりたいと凄く感じていた」と語る。「だからパネルにアクリルで描くのではなく、キャンバスに油絵で描きたいと思っていたし、テーマも普遍性のあるものを選んで深く掘り下げていました」。
• 石田の視点は、予備校時代から完全に変わった。最初の頃の作品にはモチーフがあって、絵画的な表現ではなかったが、それはテスト的な表現だった。「だからこそ彼の願望がアーティスト志向になって行ったと思います」と和田氏は語る。

• 石田の武蔵野美術大学時代の作品「ミノムシの睡眠(1995年)」とその左隣に展示されている「不安な夢(1996年)」を比べると「もの凄い進歩を遂げているんですよね」と和田氏は説明する。
• 10年間で200点を残すには単純に計算しても1年に20点。その中には大作も多く、どれだけアーティストになることに情熱を注いでいたか分かる。
• 石田の親友、平林勇氏の回顧ノートによると、会話中にも絵を描く手を止めることはなかったという。

• 人物を物体の中に合体させる石田の作風は、2000年を過ぎた頃から人物が消え静物画に変わって行った。それらの作品は深みがあり良い作品ではあったが、それ以前の作品に石田の強いオリジナリティを見出していた和田氏は、自立するにはそれが必要だと考え、石田とオリジナリティについて議論したという。
• 石田は、人間は総て影響されて来ているから、自分が作り出したと思っても、それはオリジナルではないという考えを持っていたという。

• それから石田は和田氏の画廊に姿を見せなくなった。3か月経った頃に画廊に現れた石田は、和田氏に作品「体液(2004年)」を見せた。それは洗面台の上に顔が乗っている絵で、涙が留めなく流れているものだった。和田氏は余りにも辛く、悲しく、その絵を直視できなかったという。
• 以前の石田の人間と物体が合体する絵にはユーモアもあったが、その後の作品は悲哀感が強くなった。石田は「もう昔の絵には戻れない」と和田氏に語ったという。
• 「アーティストが自分の進むべき道を模索している時に、引き戻そうとしちゃいけないんだという事を凄く反省しましたね」と和田氏は語る。

• 石田は夜間に印刷会社と警備会社で働いていた。平林氏の回顧ノートによると、警備会社でアルバイト中、トラックを誘導していた同僚の一人がトラックと壁に挟まれて死亡する事故があった。石田は「お前のせいだ」と責められたという。「その頃から精神的に少しおかしくなった気がします」と平林氏は書いている。
• だが、死亡する半年前には「これからは明るい色彩で、例えば、波だけが描いてあるような作品を描いて行く」という様なことを前向きな雰囲気で話していたという。

• 石田は2005年5月23日に踏切事故で死亡した。
• 兄の道明氏は「電車に接触したんですよ。(徹也の)自宅が線路端だったんですよ。その前日、徹也と一緒だったんですよ。飲んではいないです。でもやはりちょっとおかしかったんだろうね。その日は分からなかったですけどね」と言葉少なに語った。

• 家族は石田の死後、作品集を出し、和田氏の画廊での展覧会を最後に、石田の作品を処分しようと思っていた。実際にもの凄い作品量であったために、倉庫を借りて保存するほどだった。
• だが、最後の展覧会を見に来たNHKのディレクターによって作品が「新日曜美術館」で紹介され、人々に知られることとなった。石田の作品は人々の共感を呼び、今日でも日本各地で巡回展が行われている。

• 一方、マドリッドのヴェラスケス氏からは、石田徹也の公式ホームページ「https://www.tetsuyaishida.jp」を通じて連絡があった。Eメールでやり取りをしているうちに「これは本気だな」と思ったと道明氏は語る。

• 平林氏のノートによると、口下手な石田は、「実力だけで評価される欧米に行きたい」と語っていたという。石田の作品は没後10年でベネチアへ行き、マドリッドに行き、今シカゴにやって来た。

【編集後記】石田徹也という青年のストーリーを知った上で展覧会に行って頂ければ、作品群をより身近に感じて頂けると思い、記事を書きました。辛い思いもありながら話して下さった石田道明氏と和田友美恵氏に深謝致します。

※石田展開催中はいろいろなプログラムが行われる。情報はhttps://wrightwood659.org/

石田徹也回顧展
チケット:General Admission $16
場所:Wrightwood 659
659 W. Wrightwood Ave, Chicago
開館日と時間帯:
木(12:00pm ・8:00pm)
金(12:00pm ・8:00pm)
土(10:00am ・7:00pm)
※事前予約が必要で、申し込みはオンラインのみ。
https://tickets.wrightwood659.org/events


空間に圧倒される659 Wrightwood美術館で開催中の石田徹也回顧展


石田徹也作品前に立つ、兄の石田道明氏


659 Wrightwood美術館に展示されている石田徹也作品「体液」2004年