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  連載 「一炊の夢」


南見和華

4月:「春を待つ」
「配所の月」

 「配所の月」という言葉がある。近年、あまり耳にしないかもしれない。

 「配所」とは、「刑罰によって罪人を流した所、流刑の地」だ。流刑は、「島流し」と言った方が分かり易いかもしれない。古代日本においては、死刑に次ぐ二番目に重い刑罰であった。平安期以降は死刑がほとんど実施されなかったので、実質的な極刑だった。江戸時代には「遠島」と称され、明治41年になって廃止された。

 流刑が廃止となり「配所」もなくなった今、「配所の月」を見ることはできない。見る者もいない。ただ、サラリーマンなど組織に属する者が、左遷されて悲嘆に暮れ、「配所の月を見る」と譬えられる例は多い。自身を振り返っても、望まぬ転勤も経験した。

 徒然草の第五段に「配所の月、罪なくて見んこと、さも覚えぬべし」とある。中納言源顕基が言ったとされるこの言葉の本来の意味は、「もののあわれ」に対する理想を表したものと言う。流罪の身ではなく、罪のない身で配所のような閑寂な土地の月を眺めれば、風雅で趣のあることであろう、という意味だ。

 日本の古代は、政争の歴史である。権力を握ろうとする者達の争いが絶えることがなかった。
「青丹よし 奈良の都は 咲く花の 匂ふがごとく 今盛りなり」と詠われ、平和なイメージの奈良時代だが、実は、政変の連続だった。主だったものだけでも、729年の長屋王の変、757年橘奈良麻呂の変、764年藤原仲麻呂の乱・・・と続く。これは平安時代になっても変わらず、「変」や「乱」が相次いだ。

 これらの政争で、敗れた側は、混乱の中で殺されたり、自害させられたりしたが、流罪となる者も多かった。こうして佐渡、隠岐、九州などの流刑の地に、かつては権力の中枢近くにいた皇族、貴族など、生まれが高貴で教養のあるものが流されていくことになった。彼等はそこで都を想ったであろう。そして、その地で「配所の月」を眺めたのである。

 「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」
古代に地方に流された人物としては菅原道真が思い浮かぶ。但し、道真の場合は、「流罪」ではなく、大宰府への「左遷」であったので、「配所」の月を見ていた訳ではない。

 交通手段の限られていた古代に、都から何日もかけてようやく辿り着く、地の果て、海のかなたの流刑の地。通信、情報手段も手紙くらいしかないというその時代に、鬼界ヶ島のような配所に流されてしまった隔絶感は想像を絶する厳しさであったに違いない。その隔絶感には遠く及ばないまでも、今の時代で多少とも近い状況を探すとすると、一昼夜以上かけなければ日本から到達することのできない、言語も文化も全く異なるアフリカの国に転勤となった場合などが考えられるだろうか。

 新入社員の頃、アフリカを担当していた。当時のアフリカは、治安が悪く、衛生環境も劣悪なところが多かった。実際に、私の周りのアフリカ駐在員や担当者に、強盗にあった者、肝炎で命を落とした者、マラリアに罹り欧州に緊急で航空搬送された者、原因不明の風土病に侵され身体にカビが生え、効果が現れるまで様々な薬を試す治療が必要になった者などもいた。

 そんな頃、会社の事務所もまだ設立されておらず、もちろん大使館も領事館もなく、日本と電話も通じないアフリカの国に長期で出張した。周りに日本人はいない。日本食などもちろんない。一日か二日に一度打ち合わせをする取引先が唯一の知り合いと言えば知り合いだ。飛行機で二時間ほどの隣国にある事務所に、数日に一度、報告のために立ち寄る。久しぶりの日本語での会話だ。打ち合わせを終えると、オフィスにあった数週間遅れの日本の新聞がうれしくて隅々まで活字をむさぼり読んだ。

 思い返せば、その当時のアフリカの現地駐在員たちは、自分の境遇について文句を言うでもなく、自らの責務を果たしていた。故国を遠く離れて寂しい気持ちも、本店に早く戻って活躍したいという願望も持っていたに違いない。休日には、ゴルフ、テニス、バーベキュー等出来る限りの生活の楽しみも見出しながら、黙々と働いていた。こういう人たちの努力によって日本が支えられている。

 だいぶ時代が下り、今から二十年ほど前、とあるアジアの発展途上国に出張した。そこに、語学と業務の研修生として一年間駐在する若手社員がいた。スポーツマンで礼儀正しい中にも自信を漂わせる好もしい感じの男だった。出張中の私は休日にゴルフに誘われ、彼に車で送り迎えしてもらった。彼は、車中で、自分が担当する仕事の面白さを生き生きと話してくれた。その国の経済発展にも貢献できると誇りも感じていたようだ。

 独身の彼は、会社が用意する単身赴任者用の寮に住んでいた。ゴルフ場からの帰り、彼の誘いもあり、私はその寮で、他の駐在員とも一緒に夕食を摂ることとした。少しアルコールも入り、会話も弾んだ。

 彼が、何かを取りに行こうとした時だっただろうか、食堂に面している彼の部屋のドアを開けた。ふと、部屋の中に目が行った。壁には大きなカレンダーが貼られていた。そのカレンダーの、あと数週間後に迫った彼の帰国予定日には赤い丸印がつけられていた。そして、それまで過ぎ去った日の一日一日全てにバツ印がつけられていた。帰国できる日を心待ちに、一日を終えると一日ずつ、過ぎたその日をバツ印で消していたのだ。一年間の駐在期間、精一杯仕事に打ち込んでいた彼は、同時に、日本に帰るその日を励みに頑張っていた。

 現代においては、インターネットやスマホの発達で、おおよそ世界のどこにいても、日本の情報が手に入る。リアルタイムで日本のテレビ番組を見ることが出来るし、家族の姿を映像で見ながら電話できるようになった。海外在住の日本人も増加し、世界には日本食レストランも多くなった。仮にどこか海外に転勤となったとしても、昔ほどは隔絶された世界に追いやられたように感じることはないであろう。良い時代になった。

 今から四十年ほど昔、期限の定めのない長期出張を命じられ、日本から飛行機を乗り継ぎ三十時間以上かけて到着したアフリカの国。夜、ホテルのレストランで、一人食事をする。部屋に戻ってもすることがなく、バーに寄る。周りに日本を思わせるものは何ひとつない。いつ日本に帰れるのかも分からない。日本で購入したアフリカの国々を紹介するガイドブックを開くと、国際社会からのサンクションが解除され新生独立したばかりのその国に関する記述は1ページのみだった。在住する日本人は3名、とあった。自分はこの国にいる4人目の日本人なのか、と思いながら、大きな窓の外に広がる真っ暗闇に目をやり、グラスを傾けた。

 「名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
世の中が便利になればなるほど、昔の人が詠ったような「もののあはれ」を感じる機会が減っていくようだ。そして、それに伴い、そういう風情を感じる日本人の心も薄れていく。それが「時代の流れ」というものなのだろう。(了)