日本語メインに戻る
       

  連載 「一炊の夢」


南見和華

4月:「春を待つ」

5月:「配所の月」

「曲がり角」

 東京の街は意外に変化に富んでいる。天気の良い日に、気が向くとぶらぶらと散歩に出る。ふと、角を曲がると、景色が一変することがある。急に細い道が入り組んで郷愁を誘うような古い家並みに誘い込まれたり、登るのが大変そうな急坂が突然目の前に現れたりする。

 人生にもいくつもの曲がり角がある。自分で判断して曲がることもあるが、望んでいたわけでもないのに突然訪れる曲がり角もある。自分で曲がると決めた場合は、大概が良い結果を期待しているのだと思うが、予想もしていないのに訪れる曲がり角はそうではない。思いがけない幸運が待っていたりすることもあるが、気乗りのしないものもある。

「インドネシアに行ってくれ」

 ある日、突然の辞令を受けた。
インドネシアには、それまで何度も出張で訪れていた。東南アジアで最大の人口を抱え将来有望な国というだけでなく、親日的で、個人的にも嫌いではなかった。だが、四十歳代半ばを過ぎてのこの転勤は気の進まないものだった。

それまでの二度の海外駐在は英国だったので、欧州派と見られていた。初めてのアジア駐在となる。いずれにせよ、この年齢で転勤となれば、帰国する時は五十歳を超えてしまう。帰任した時に、望むようなポジションに就けるだろうか・・・。家族は連れて行くべきだろうか・・・。前回の英国の時は家族を伴って駐在した。まだ小さかった子供達は現地の日本人学校に入学させた。だが、既に一人は私立の中学校に通っており転校すれば戻ることは出来ない。中学受験を間近に控える次男は、ここで転校すれば進学時にハンディキャップとなるだろう。妻は病気の実母の面倒を見ている。

海外転勤は家族帯同が原則となっているが、個別事情も勘案される。単身赴任を考えるべきだろうか。だが、この年齢になっての単身の生活には厳しいものがある。あれやこれや色々なことが頭をよぎった。

赴任前の打ち合わせやら研修を受けていると、あっという間に出発当日を迎えた。
必ずしも晴れやかとは言えない気持ちのまま、成田空港からジャカルタ行の便に乗り込む。何年間の駐在となるかわからない中、結局、家族を日本に残し、単身赴任することとした。

飛行機は離陸に向け滑走路を走り始めた。速度が上がる。いよいよ出発だ。現地で私を待っている取引先や、駐在員がいる。私が沈鬱な気分でいるわけにはいかない。新任地での新しい職務に励もうと、それまでに気持ちの切り替えをした積りだったが、飛行機が離陸する段になり、いよいよ、これで本当に腹を決めた、と思った。

その時だった。
加速してかなりの速度にまで達していた飛行機の右側のエンジンから、「パーン、パーン」と大きな音がした。何事か、と、乗客は一斉に窓の外に目をやる。直後、飛行機は急減速を始めた。だが、飛行機の速度はすぐには落ちては行かない。機内に緊張が走る。これは滑走路をとび出して、大事故になる可能性があるな、と意外に冷静に思った。が、幸運にも、飛行機は何とか滑走路内で停止した。機内からは分からないが、ぎりぎりだったに違いない。

乗客は空港ビル内の一室に移され、そこで待たされた。キャンセルになるのだろうか?代替機が用意されるなどして、今日中に飛ぶことができるのだろうか?状況がよく分からないまま、部屋で待つ。大変な赴任初日になってしまった。周りには文句を言っている乗客もいたが、飛行機が飛ばないのであれば、しょうがない。

3、4時間もしただろうか、搭乗開始のアナウンスが流れた。やれやれ、到着は夜も遅くなるな。待ちくたびれた乗客が、ぞろぞろと再び飛行機に乗り込む。代替機ではなく、修理をしたのであろう先程と同じ機材だ。同じ席に座る。ほどなく飛行機は滑走路を走り始めた。今度はちゃんと飛んでくれるだろうな、とおそらくほぼ全ての乗客が思った。

だが、「パーン」と、大きな音が、今度は一度きりだったが、また飛行機の右側から鳴った。先程ほど速度の出ていなかった飛行機は、今度は多少余裕を持って停止した。機内は騒然となった。長い時間待たされて不満が溜まっていた乗客は、客室乗務員に口々に文句を言い出し、立ち上がって詰め寄る者も出てきた。穏やかではない空気が漂う機内で、大事故にならずに済んで良かった、と考えていると、客室乗務員の一人が、この不首尾を謝りに私の元にやって来た。

「一度目の離陸の時は、パーン、パーン、と二回音がしたが、二度目は、パーン、と一回きりだったから、次はちゃんと飛ぶでしょう」と冗談を飛ばすと、その客室乗務員は、一時は重大事故をも覚悟したであろう緊迫感と、苛立つ乗客対応で気が張っていたのだろう、思わぬ言葉にほっとしたのか、腰を落とし一瞬その場に座り込んだ。

結局、この日、このフライトが飛ぶことはなかった。

航空会社の地上職員が、ごった返す乗客に空港近隣のホテルを宿泊先として割り当てるのに大わらわになっている。自宅に戻るので宿泊用のホテルはいらないと伝え、その代わりに往復の交通費を出すように交渉した私は、東京の自宅に戻った。携帯電話もない当時、公衆電話での連絡もせずに、夜になって突然の帰宅となった。海外出張が多く、私が家を出入りすることに慣れていたのか、思わぬ帰宅にも、家族はさして驚く風もなかった。フライトがキャンセルとなったため、赴任が一日遅れることを、会社に連絡する。

予想外のアクシデントで出発日が一日延びた。気乗りのしない転勤を象徴するかのようだ、とそんな考えが、一瞬頭の片隅を過ぎった。しかし、いや、とんでもない。そんなことを決して考えてはいけない、と即座に打ち消す。

翌日、何の問題もなく予定通りに飛んだフライトで、私はジャカルタに赴任した。

インドネシアでの駐在は、三年八か月に及んだ。
1990年代末のアジア経済危機を経て、民主化運動により長期独裁政権が打倒され、政治的にも混乱していたインドネシアの経済環境は厳しかった。国もまだまだ未発展で、一人当たり国民所得が千ドルに届かない国民の生活は貧しかった。だが、人々の顔は明るく屈託がないように見えた。今はまだ貧しくても、昨日より今日は良かった、明日は今日より良くなる、と皆が信じて一日一日を送っているようだった。私がまだ子供だった昭和三十年代の日本を思い起こさせた。

「本店に戻ってこい」

単身赴任の生活にもすっかり慣れたそんなある日、次の辞令を受けた。私は、また、新たな人生の曲がり角を曲がった。

二十年近く前、仕事が思うように進まず、苦しいことも多かったインドネシア駐在時代。しかし、そこに住む人々は、貧しくても、「ティダ・アパアパ(気にしない、気にしない)」と言って、明日を信じ、その日その日を明るく生きていた。その姿に、私の気持ちは救われた。
インドネシアは、その後、経済発展を続け、G20のメンバー国にもなった。そして、2050年までには、長く続く低成長から抜け出すことのできない日本をGDPで上回り、世界第四位の経済大国となると予測されている。