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  連載 「一炊の夢」


南見和華

7月:「曲がり角」

5月:「配所の月」

4月:「春を待つ」

「よろしく哀愁」

 挨拶を終え、役員室を出る。
役員応接室では、どのくらい話をしていたであろうか。まだ貢献できることも充分あるとは思っていたが、この会社での自分の役目は終えたな、と思った。三十年以上勤めた。振り返れば、かなりの実績を上げた積りだ。自分の能力にもそれなりの自負があった。そして、その分、敵も多かった。

秘書室の受付で礼を告げると、踵を返し秘書たちに背中を見せエレベータホールへ向かう。
ふと、見送る秘書たちが、自分の後ろ姿に「哀愁」を感じるだろうか、と考えた。いやいや、三文ドラマじゃあるまいし・・・大体、背中に哀愁を漂わせられるような柄じゃない。そんなことを考えた自分が少し可笑しくなった。

 長年「我が社」と思って働いてきたオフィスを後にした。辞める、となると、あっさりしたものだ。

 大学では経済学を専攻し、国際経済学の教授に師事した。経営学の講義もいくつか履修し、そこでは、当時の最先進の米国の経営学の一端も学んだ。在学中に米国短期留学を経験した私は、日本が世界で生き残るには国際ビジネスの道しかないと考え、就職先に総合商社を選んだ。

 希望通りに入社した総合商社では、輸出を業務とする部署に配属となった。初めて与えられた自分の机を前にして、日本経済の最前線に立った、と思った。期待が膨らんだ、しかし、そこで目にしたのは、ずいぶんと前近代的な企業の実態だった。終戦直後に財閥解体で数百の小企業に分割された会社が、十数年を経て大合同し旧社名に復してから十八年、大型の吸収合併をして僅か十二年しか経っていなかった。旧会社の戦前からの社員、分割された小企業時代の者、吸収合併された会社の出身者・・・社員の経歴は様々だった。部長が出勤してくるのは午前十時を回ってからだ。目の前の現場で日々猛烈に仕事をしているのは、課長以下の団塊の世代の若手だった。私のすぐ上の世代である彼らは、どこへ行っても競争が厳しい中を生き抜いていくバイタリティの塊りだった。

 配属された部署では、直属の上司が私のための教育プログラムを用意していた。私は、早く仕事を覚え、現場で活躍したいと、張り切った。しかし、僅か半年で配属替えとなった。異動した先も輸出を手掛ける部署ではあったが、仕事内容が異なり、一からやり直しだ。そこで、新しく私の直属の上司となったのは、祖父が旧陸軍の大幹部、父が外務省の高官という血筋だった。団塊の世代のこの上司は、子供の頃から海外生活を経験し、英語とフランス語の二カ国語を自在に操る、まさに、世界を股にかけ活躍する商社マンだった。

 この上司は、毎朝、部長並の出勤だった。一般の社員が、連日深夜まで残業をしても翌朝は定時に出勤して仕事に励む中で、ただ一人、午前も遅くなった時間にふらりと現れ、自分はそうするのが当然であるかの如く振舞っていた。その上司の後ろ盾となっている課長は、それを容認していた。そして、部長を含め、誰も注意する者はいなかった。

 ある日のこと、会議が予定されていたにもかかわらず、その上司がなかなか会社に現れなかった。さすがにしびれを切らした課長がアシスタントを呼んだ。家に電話をして、まだ出ていないのであれば、早く出社するように伝えろ、と指示した。電話をかけ終えたアシスタントが課長に報告する。
「奥様が電話に出られて、先程、家は出られたとのことですが、ネクタイ選びに時間がかかってしまい、出社が少し遅れるとのことです」

 その上司は、多くの人間的魅力を有する人物だった。人を捉えて離さない語り口、豊富な知識、育ちの良さを感じさせる立ち居振る舞い。父親の人脈も影響を及ぼしていたかもしれない。社内外で一目置かれ、取引先からも丁重に扱われていた。

 ただ、私とは、考え方、行動様式など全てが違った。生意気盛りだった私が仕事で自分の意見を口にすると、その度に手ひどく捻りつぶされた。新入社員の教育のことなど念頭にないその上司は、そもそも、私に意見など求めていない。私は、指示されたことに疑問を差し挟むことなく、ただ指示されたように行動することを命じられた。社会に出たばかりで理不尽さに直面したと思った私の期待は萎んだ。新入社員で仕事もまだろくにできない私を擁護する者は周りに一人もいない。この会社では、自分の望みを叶えることはできない。入る会社を間違えた、と思った私は、転職するべく、就職試験の問題集を購入し勉強を始めた。

 そんな日々を送っていると、ほどなく組織変更が行われ、部長が交代となった。新部長は、短時日の間に部内の状況を把握すると、まずは、上司の庇護者であった課長を地方支店に転勤させた。そして、私を、その上司の部下の立場から引き離し、担当者として独り立ちさせた。

 新しくやってきた部長の下で、気心の知れた課長がいなくなり、元上司は以前のようには勝手ができなくなった。その後も変わらず欧州やアフリカ諸国へと出張を重ねていたが、そんな折、肝炎に感染してしまう。当時まだウィルスが見つかっておらず、ノンAノンB型と呼ばれた厄介な肝炎だった。半年以上も入院することとなった。退院後も、長い自宅療養で会社から遠ざかった。ようやく職場復帰を果たすが、管理部門で軽勤務でのリスタートとなった。

 その元上司が、職場復帰してから何年かした頃、二週間の休暇を取ったという噂が流れて来た。フランスでバカンスを楽しんできたというのだ。一週間の夏休みを申請するのがまだ憚れるような時代であった。社内では、時代の先取りをしたかのような行動を、良くやった、と、賞賛する声もあったが、表には上らない批判も多かった。

 英国に転勤となり何年かした頃、その元上司が、肝炎がもとで他界したとの知らせが、私の元に届いた。直ったはずの肝炎が、思ったより深刻だったのだ。一人の企業戦士が逝った。まだ、四十九歳だった。

 五年の英国駐在を終え本店に戻り、しばらくした頃、元上司の「偲ぶ会」が催された。会場のある鳥居坂の某所に出向くと、会を主催する元上司の奥さんが入り口で参列者の応接をしていた。私は自分の名前を告げると、お悔やみの言葉を述べ、前年の葬儀に参列できなかったことを詫びた。すると、その時初めて会ったその奥さんが、私に向かい「あなたがXXさんですか、主人から話しは聞いていました」と言った。「えっ」と驚きの声が喉まで出かかった。新入社員当時にその元上司の部下だった頃から二十年が過ぎていた。この間、会ったことのない私の名前が風化して消えることなく、奥さんの記憶に刻まれていた。元上司は、私について、一体何をどのように話していたのだろうか。

 「生き急いだ人生でした」
集まった参列者を前にした挨拶で、奥さんが発した言葉が耳に残る。

 故人の想い出の品が並ぶ部屋に留まり、同じくその場に残った参列者と言葉を交わしていると、前年の葬儀での出来事を聞かされた。一人の女性の参列者が、自分の番になりご焼香を済ませると、突然わっと泣き出し、喪主である奥さんの目の前で、故人の亡骸を納めた棺にすがり付き、泣き続けてしばらく離れなかったそうだ。
何があったのだろうか。そして、どんな人生だったのだろうか。

 部下だった頃、その上司が、「ムシャクシャした時は、夜中に東名とか第三京浜をぶっ飛ばすんだ」と言っていたのを思い出した。病気になったとはいうものの、生まれも育ちも恵まれた境遇で、おおよそ自分の思い通りに生きていたように思われたその人生は、実は満たされないものも多かったのかも知れない。初めて少し不憫に思えた。

 その元上司が病気から職場に復帰した後、閑職と思われる部署にいた頃に社内で何度かすれ違った。さすがに少し元気がないように見えた。しかし、その頃のその元上司でさえ、「哀愁」を感じさせるということはなかった。
その昔、若手男性歌手が歌う「よろしく哀愁」という曲が流行ったことがあった。「哀愁」という言葉の持つ意味を深く考えることもなく聴き流していたが、どうやら、「哀愁」を漂わせたり、纏ったりするというのは、常人にはなかなかできることではないもののようだ。(了)