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  連載 「一炊の夢」


南見和華

10月:「他人の顔」

9月:「よろしく哀愁」

7月:「曲がり角」

5月:「配所の月」

4月:「春を待つ」

「同期生」

「えっ・・・」

 アイルランドのダブリン事務所にいた海外出張中の私は、電話を受けると受話器を耳に当てたまま、絶句した。

 つい先ほど、取引先との交渉を終えて事務所に戻ってきたばかりだった。「東京から電話が入っていますよ」と、アイルランド人のベテラン女性秘書に受話器を渡された。「もしもし」と応じる。今はもう誰だったかも覚えていない国際電話の主は、電話口に出たのが私であることを確かめると、言葉を続けた。そして、次の瞬間、私は言葉を失った。

* * * * *

 高校時代から、何故か気が合って仲の良かった四人組がいた。
私を含む三人は新入生の時に同じクラスとなり、入学してすぐの頃から良く話をするようになった。二年時のクラス替えでもそのまま一緒だった三人に、新たに同じクラスになったもう一人が加わって四人組となった。クラブ活動も違えば、特段いつも一緒に行動するというようなことはなかったが、馬が合った。二年生の修学旅行の自由行動のグループ分けでも、四人は誰が言い出すともなくすぐに一緒になった。そして、あぶれ気味になっていた一人に声をかけ、五人のグループを作った。だが、後から加わったその一人は、修学旅行から戻ると、我々の仲間となることなく、四人組は四人組のままだった。

 四人組のうちの一人、О君は、入学試験をトップで合格した秀才だった。入学式後の最初の登校日に、全校生が校庭に集まる朝礼で、新入生を代表して挨拶をした。挨拶の原稿は自分で書いたのだろうか、何かを参考にしたのだろうか、登壇したО君は、全校生徒を前に、「我々新入生は、期待に胸を膨らませ、桜の花舞い散るこの季節に、当校の校門をくぐり・・・」と始めた。すると、紋切り型の挨拶に、上級生からは、「ヒュー、ヒュー」、「何、言っているんだ」、「つまらないぞー」と冷やかしやら、ブーイングやらが巻き起こった。

 新入生の我々は、何事が起ったのか、と上級生の方を振り向いた。高校生になったばかりの我々に対する、とりわけ我々を代表するO君への上級生達からの手荒い洗礼だ。教師達は静観している。О君は、一瞬、挨拶を止めると、苦笑いを浮かべ、上級生たちの方に向き直り、まあ、まあ、と言うように右手の手の平を上級生たちの方に向け、二、三度ゆっくりと宥めるように振った。上級生たちから、どっと笑い声が起こり、からかいの言葉が消えた。О君はそのまま挨拶を続け、何事もなかったかのようにやりきった。お辞儀をすると、最後まで聞いていた上級生たちの間から拍手の波が起こり、全校生徒に広がった。

 男子校で、質実剛健、文武両道を標榜する男臭い学校だった。運動会に限らず、サッカー、ラグビー等、色々な校内のスポーツ大会があった。中でも、走るのが好きな学校だった。春は、「新入生歓迎マラソン」と称して、学校の近隣10kmを走る。秋は、「強歩大会」という名前で、父兄や警察の沿道での協力を得て、マラソンより長い50km近い距離を走ったり歩いたりして「完走」を目指す。冬は、学校の周囲を走る駅伝大会だ。それらイベント前、体育の授業は長距離走の練習になることが多かった。私もO君も中長距離走を得意とした。クラスでもう一人足の速い男と、いつも3人で先頭を争った。そのもう一人は、短めの距離では圧倒的に強かったが、長くなると、私やO君の方が早かった。

 体育の授業の10km走では、何度も、私とO君が最後にトップを争った。お互い、相手に決して負けたくない。横に並んで走る。相手の様子を窺いながら、スパートのタイミングを計る。前回は、あそこの角でスパートを掛けたら、最後に抜かれてしまったので、もう少し我慢しよう、と考えていると、O君が先にスパートを掛けそのまま負けてしまった、ということもあった。私よりだいぶ小柄なO君だったが、身体能力が高かった。恐らく通算では、私が負け越している。

 二年生の時に、O君の父親が転勤となった。家族が引っ越しをした。一人残されたO君は、下宿することになった。高校は、親元からの通学が原則だったが、特例として認められた。だが、高校生を下宿させてくれるところは少ない。見つけたのは、近隣の大学の女子大生専門の下宿だった。男性だが、高校生だから良いだろう、ということで、認められたのだと言う。O君は、「どうだ、うらやましいだろう」と我々に得意げに語った。それを聞いた我々三人は、「いいなあ」と思ったかもしれない。だが、それは、O君の強がりだったに違いない。大家もいる家で食事付きとはいうものの、まだ高校生で、一人暮らしは寂しいものだっただろう。

 三年時のクラス替えでは、皆ばらばらになった。四人が集まる機会は減った。そうでなくとも、受験勉強が我々を待っていた。
私は受験勉強をしなかった。格好良く言えば、詰め込みの受験勉強を拒否したのだが、要は怠惰な学生だった。そして、「人生の意味は何か?」、「この世に真理はあるのか?」など、余計なことを考えだした。関係の本を読みあさったりもした。勉強と言えば、試験範囲とは関係なく好きな科目を好きな時にしていた。

 当然のごとく私の成績は低迷し、大学受験に失敗し浪人をすることになった。どうやら、人生には、特に青少年時代に、あまり色々なことを考えずに、勉強なら勉強、スポーツならスポーツと一心不乱に何かに打ち込む時期があった方が良いようだ、と今ならば言える。浪人生となった私は、受験失敗は挫折ではあるが、考える時間を貰った、と思った。そして、通学する予備校で、私は、私の人生に大きく影響を与える、もう一人の「同期生」と出会うことになる。だが、それは、また別の話しだ。

 四人組の内、O君ともう一人は、一年後に私が後を追って入学することになる大学に進学し、残るもう一人は、私と同様一年浪人をして、三人とは別の某私立大学に入った。

 時は流れ、それぞれの道を歩み出した四人組は、就職した後もたまに集まった。食事をしたり、下手な麻雀をしたり、大したスコアにならないボウリングをした。お互いの結婚式にも出席した。決して濃密ではないが、程よい距離感の間柄だった。私の最初の英国転勤の時には、「壮行会」と称して夫婦連れで集まった。就職してからキャラクターが少し変わったのか、О君は、今なら「親父ギャグ」と呼ばれ馬鹿にされそうなジョークを連発した。私の妻は、それを面白いと言って喜んだ。そして、О君は、単身赴任をする私に対し、「向こうに行ったら奥さんに手紙を沢山書けよ」と言って、それを聞いていた素直な妻を感動させた。

 お互いに歳を重ね多少時間が取れるようになると、夫婦で集まって会食をする機会が増えた。取引先などとの会食の機会が多い私は、「仕事柄、レストランを良く知っているだろう」と言われ、場所の選定を任される。夫婦揃って長い付き合いなので、「今日は、合コンスタイルにしよう」と言って、戯れに夫婦をシャッフルして違うペアの組み合わせで着席して会食したりしている。

しかし、そこにO君の姿はない。

* * * * *

 ダブリン事務所の電話で、私は、О君の「死」を知らされた。
今から二十年も前のことだ。一体、何があったのか、О君は自ら命を絶った。

 電話を切ると、私の顔色が変わったのを見てとったのだろう、現地職員がどうしたのかと聞いてきた。その職員と共に我々は、毎日朝から晩まで続くタフな契約交渉をしていた。そして、その日、一週間続いた交渉の最後の条件が合意に達し、重要な契約が決まったと、喜びと多少の興奮を持って事務所に戻ってきたところだった。私は、親友が亡くなったことを告げた。そして、人生は、何か良いことがあると、何か悪いことが起こり、バランスするようになっているのだろうか、と答えを求めるでもなく尋ねた。

 中学生の頃からジョギングをしていた。年齢が高くなってきた最近は、アスファルトの道路が膝に負担をかけるので、フィットネスクラブのトレッドミルで走る。週に二度、一回に10kmを走る。体調を崩したり、用事があってしばらく休むこともある。そうすると、トレーニングを再開した日の10kmは、かなりきつい。あと2km・・1km・・もう少しだ。必ず走りきらなくてもよいのだが、苦しくても必死で最後まで頑張る。そんな時、何十年も昔の高校時代、肩が触れんばかりに並走し、お互い相手の息遣いを計り、こいつには負けるものかと意地を張り合いながら、何度も競い合って、O君と走ったことを思い出す。(了)