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  連載 「一炊の夢」


南見和華

11月:「同期生」

10月:「他人の顔」

9月:「よろしく哀愁」

7月:「曲がり角」

5月:「配所の月」

4月:「春を待つ」

  「 赤い服 」 ― 男と女 ― 

 英国への転勤が決まると、時計の針がものすごい速度で回転し始めた。
社内外の打ち合わせ、業務の引き継ぎ、転勤のための手続きでスケジュール表が埋め尽くされた。自席を温める暇がない。直属の上司からは、「転勤するからといって業務を放り出すな。出社最終日まで、きっちり仕事をして行け」と命じられていた。後任の若手に徐々に仕事を引き継ぎながら、必死でその日その日の業務をこなす日々が続く。

「おい、××日の夜は開けておけ。」
「是非、歓送会を催したいので、時間を空けて頂けますか?」

 出発日までの夜は、取引先、社内関係先、先輩、友人たちによる歓送会の予定で全て埋まった。それでも、まだ声が掛かった。昼食の時間も徐々に会食の予定で埋まっていった。
あの時の、時間のなさから来る切迫感というか、焦熱感というか、あの感覚は、今でも思い起こすことができる。「充実感」という言葉ではポジティヴ過ぎる。「てんやわんや」では無秩序な混乱のイメージが強すぎる。ともかく、朝起きてから深夜まで、目の前のスケジュールを次から次へとこなしてやり過ごして行く毎日だ。

 そんなある夜、親しくしていた取引先が催してくれた会食を終え、タクシーに一人乗り込んだ。時刻は夜9時を少し回ったところだ。運転手に行き先を告げる。家に帰るのではない。行き先は、同じ銀座の外れだ。そこにあるバーだ。ヨーロッパ調のソファーや椅子などの家具がゆったりと配置され、穏やかな照明でリラックスできる雰囲気だったのが気に入っていた。以前、表参道に店を構えていた頃から通い出したのだが、何年か前に銀座に移転してきてからも、仕事を離れて少しゆっくりしたい時に立ち寄っていた。
ビルとビルの隙間の狭い階段を降りる。その先にあるずっしりと重たいドアを押し開ける。

 そこには、五人の女性が私を待っていた。

 私が到着すると、女性たちは立ち上って一斉に私の方に振り向いた。目に飛び込んできた彼女たちは、五人ともそれぞれが、はっと息を飲む、見るも鮮やかな「真っ赤」なワンピースやらスーツやらカーディガンを纏っていた。

 彼女たちは、いずれも私のアシスタントを務めた女性たちだった。
当時、私の勤めていた会社では、担当者の補助業務のため、課に数人の女性アシスタントが配属された。仕事の関係からか、私には必ずアシスタントが一名割当てられた。ただ、アシスタントがようやく仕事に慣れ、お互いの間合いがわかるようになる頃、配置換えとなり交代した。おおよそ一年ごとにアシスタントが代わった。

 そんな訳で、七年ほど在籍したその部署には、私のアシスタントを経験した女性が、そこここに何人も在籍することとなった。そして、その夜は、結婚して退職し子供が生まれたばかりの一人を除き、当時現役だったアシスタント経験者五人が集まった。彼女達から歓送会の申し出を受けた時には、既に夕食の時間が全て予定で埋まってしまっていたため、二次会をお断りした取引先との会食後の設定となった。彼女たちはそんな遅い時間に集まった。この日のため、親に事情を説明し、特別に門限の延長許可をもらったという者もいた。

 彼女たちに、仕事では厳しく接した。深夜になるまで残業することもあり、会社からタクシーで帰宅させたことが何度もあった。土曜、日曜の休日出勤もあった。パワハラとかセクハラという言葉がまだない時代だった。

 新入社員の最初の配属で私のもとに来た一人は、開口一番、「私は、フランス語の勉強を続けたいので、語学学校に通うため会社は定時で帰らせて下さい」と宣言した。私も自分のやり方を変えない。「あなたにその日お願いした仕事を終えたら、何時に帰って貰っても結構ですよ」と答えた。そんなやり取りが何カ月も続いた。学校の授業のある日は便宜を図るようにしたが、仕事の都合で、定時に帰れることもあれば、残業をしなくてはならないこともあった。その女性は、結局、会社に長く勤め、後輩女性社員たちに範を示すキャリアウーマンとなった。

 帰国子女で英語がペラペラの女性もいた。だが、小、中学生時代を米国で過ごしたのみで、契約書などのビジネス文書は苦手だった。日本語は、話すのは問題ないが、書くことが難しい。バイリンガルというのは簡単ではない。どちらも中途半端になってしまう懸念がある。その女性も私のアシスタントを精一杯務めてくれた。
前のポジションであまり評判の芳しくなかった女性もいた。一緒に仕事をすると、温厚な性格で、大変優秀だった。前の担当者とあまり相性が合わなかったようだ。私のもとで良い仕事をして、社内の評価を上げた。
優秀な大学を出た抜群に仕事が出来る女性もいた。現在なら、おそらく男性と同じ職種で仕事をしても、十分やっていける能力を持っていただろう。そんな彼女も私のアシスタントとしてサポートに徹してくれた。

 きつい残業が続いた後などには、仕事が一段落したところで、アシスタントを食事に誘った。頑張ってくれたお礼の意味を込め、ちょっと女性が喜びそうなレストランを奮発して予約しておき、その日は、仕事を早目に切り上げて一緒に向かう。食事中の会話が弾み余韻が残ると、銀座の外れの行きつけのバーに足を向けた。
その銀座のバーを、彼女たちは、私の歓送会の場所に選んだ。

 その場では、何の話をしたのだろうか。恐らく仕事上の色々な想い出話だったのだろう。時間はあっという間に過ぎた。だが、十時を過ぎ、十一時を過ぎても、誰も「帰る」と言わない。若い女性たちをそのまま置いておくわけにはいかない、深夜に近づく頃、私が声を掛け、散会とした。見送られる私自身もそうだったが、皆、名残を惜しんでいるようだった。帰り際、彼女たちに囲まれて、店の人に写真を一枚撮ってもらった。

 私の英国駐在中に、何人かが旅行で訪れて来た。ゴルフができる者は本場英国のゴルフ場に案内した。自宅に招いて私の家族と一緒に庭でバーベキューを楽しんだりもした。仕事が出来、優秀だった女性は、驚いたことに会社を辞め、英国で職を得て移り住んできた。英国南部の西サセックス州に住んだ彼女が、何度かロンドンに出て来た機会には、当時、英国ではまだ物珍しかった日本食レストランに招いてご馳走した。行きつけにしていた寿司屋のカウンター席に座ると、顔馴染の板前に、不倫をしているのではないかと疑われたりした。

 その後も色々な女性に、アシスタントや秘書をして貰った。急な海外出張で、出張当日に私の外出先の駅まで、航空券を用意して持って来てくれた秘書もいた。私は、航空券を受け取ると、そのまま成田空港へ向かった。米国駐在時は、何人もの米国在住の邦人女性と面接を行い、秘書業務未経験の女性を採用して仕事を一から覚えてもらった。

 振り返れば、多くの人に助けられた。その中で、まだ若手から中堅の担当者だった頃に、献身的なサポートをしてくれたアシスタントたちには、とりわけ感慨深いものがある。私の担当職務に一緒になって取り組み、一生懸命になって支えてくれた。うまくいけば共に喜び、失敗すれば二人で落ち込んだ。当時、彼女たちとは、朝の始業時から時には深夜まで、自分の妻とよりも長い時間、仕事の場で接していたことになる。会社での単なる職制上の関係を越え、恋愛感情とは異なる、だが「男と女」の間での信頼関係が築かれていたように感じる。
あれから、多くの年月が経った。結婚して子供が出来、その子供が大学生、社会人になっている者もいる。

 私の歓送会のために、皆で相談して示し合わせて着てきた、鮮やかな真紅の衣服。私の目に焼きついたその赤色に包まれた五人のうら若い女性に囲まれて一緒に写った写真。その写真を、私はパスポートケースに入れ、その後の海外出張には必ず持ち歩いた。写真は少し古くなったものの、色褪せもせず、もう使うことのなくなったパスポートケースの同じ場所に今でも納まっている。(了)