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  連載 「一炊の夢」 ―最終回―


南見和華

2020年

2月「微苦笑」

1月:「後ろ姿」

2019年

12月:「赤い服」
―男と女―

11月:「同期生」

10月:「他人の顔」

9月:「よろしく哀愁」

7月:「曲がり角」

5月:「配所の月」

4月:「春を待つ」

「海」

 海が好きだ。
泳ぎがそれほど得意なわけではない。マリンスポーツをやるわけでもない。だが、海を見ていると飽きない。南国の砂浜で、気が向いたら海につかり少し泳ぐ。疲れたら、海辺で波の音を聞きながら静かに寝そべる。元来が怠惰な性質(たち)なのだろうか、日がな一日そんな風にしていられたら大満足だ。

 色々な海に行った。「美しかった」と記憶に残るのは、子供の手が離れた頃に、妻と二人で訪れたメキシコのカンクンの海だ。ラグーンを囲み大きく外側に張り出した細長いリゾート地帯から、カリブ海の外海が豪快に広がる。だが、脳裏に焼きつくのは、その海ではない。それは別にある。カンクンの港からさほど大きくないフェリーに乗ると、ほどなくイスラ・ムヘーレスという小さな島に着く。雑然とした小屋のような船着き場を後に、島の北端にあるビーチへと歩いて向かう。ほんのわずかの距離だ。頭上に輝く太陽の下、目に入って来るのは、どこか天国の一部であるかのような光景だ。

 大きなプールかと見紛う穏やかで波がない海・・・どこまでも続くかのような遠浅の浜・・・真っ白な砂・・・足元に絡む砂の粒まで透けて見える澄んだ水。淡いエメラルドグリーンの海が水平線へと続くと、そこで、かすかに細い筋になった沖合の濃紺の海が空の青との境界線を作る。戯れる人影はまばらだ。こんなところにいたら、現実の世界には戻れなくなるに違いない。

 だが、「海」と聞くと、「好きだ」という感情とは別に、忘れられない記憶が甦る。
それは、実は、正しくは「海」ではなく「湖」だ・・・アメリカの五大湖のひとつ、ミシガン湖だ。

 今は昔、学生時代に、ミシガン州のとある大学に夏季短期留学した。日本から参加した三十名ほどの学生に対し、その大学の教授や講師による米国の歴史、政治、文化などの特別講座が組まれていた。我々と同年代の米人学生達が、夏休みの良いアルバイトなのだろう、授業の準備やレポート作成などのサポートをしてくれた。彼らは、食事やリクリエーション、週末の過ごし方など勉強以外のことの面倒も見てくれた。最初の週末には、私を含む何人かの希望者が、彼らの運転する車でミシガン湖に連れて行って貰った。

 そこで、初めてミシガン湖を見た・・・それは「海」だった。
広大だ。向こう岸は見えない。岸辺の砂浜に波が打ち寄せる。海と違うのは、湛える水が塩水ではないことぐらいだ。若い学生同士が打解けあうのに時間はかからず、私を含む数人の仲良しグループは、その後も、何度かミシガン湖に出掛けた。

 大学の敷地内の寮に二人一組で部屋を割り当てられたが、期間中、二週間ほど米人家庭にホームステイした。米国中西部のごく一般的な中流家庭のホストファミリーは、人懐こいくらいフレンドリーで、鷹揚なほど寛容で、米国の「良心」というものに触れた思いがした。週末になると、彼らは、ミシガン湖や周辺に点在する小さな湖に連れて行ってくれた。砂浜にブランケットを敷いてピクニックランチを広げ、水上スキーやカヌー、高飛び込みをして一緒に遊んだ、夜になるとキャンプファイアーを囲んだ。海外旅行は自由化されたが、まだ厳しい外貨持ち出し制限のある頃だった。こつこつとアルバイトをして貯金をし、奨学金を申請して、それでも不足する資金を親に頼み留学した私には、米国は、幼い頃にテレビで見たアメリカのホームドラマさながらの豊かな世界だった。

 留学期間も終わりに近づいた頃、すっかり気心の知れた米人学生達が、最後の週末に何かしたいことがあるか、と聞いてきた。私たち仲良しグループは相談して、初めての週末に行ったミシガン湖に連れて行って貰うことにした。

 ひとしきり泳ぎ、遊び疲れた我々は浜辺に集まった。午後の太陽が、湖の彼方に傾きつつあった。すると、誰かが「太陽に向かって、皆の名前を一人ずつ順番に一緒に大きな声で叫ぼう」と言った。講習初日のオリエンテーションの際に、米人学生から促されて、それぞれが自分にニックネームを付けた。それを、砂浜に皆が一列に並んで、順番に大声で呼んで行くのだ。短い本名をそのまま呼び名にしていた私も、自分の名前を、皆と一緒に精一杯の大声で叫んだ。湖の上方で西に傾きつつある太陽に向かって、そのずっと向こうには日本がある、その方向に向かって叫んだ。

 皆、若かった。そうだ、今は、まだ何者でもないただの若造だ。しかし、これから世の中に出て、何者かになるのだ。さして才能があるわけでもない、何かが特別にできるわけでもないのに、若者の特権で恐れも知らずにそう思っていた。

 三十年以上が経った。
就職してから何度目かの転勤で、初めて米国駐在の機会を得た。
独立記念日前後に休暇を取り、妻を伴って、学生時代に留学したあの大学を訪れた。緑の芝生がなだらかに起伏する敷地に、ゆったりと配置された建造物が立ち並ぶ。夏の日射しの下、見覚えのある場所はないかと見回しながら歩を進める。だが、建物も多くは建て替えられてしまっているのか、記憶が呼び起こされるような景色は現れない。

 大学の事務室を訪れ、対応してくれた職員に事情を説明する。しかし、さすがに何の記録も残っていない。授業を受けた講義室、寄宿した寮など尋ねてみるが、若い職員はわからない。あの頃のものは何もない。今や、私の記憶に残るのみだ。それも仕方のない事だ、と少し落胆する。すると、「カルチュラルセンターはリノベーションはされたが、建てられたのは四十年以上前だ」と、その職員が親切にも案内してくれた。だが、センターを前にしても、見覚えはない。職員が開錠し扉を開ける。中に入るとあまり広くないエントランスホールの奥に、劇場の扉のような防音のドアがあった。そのどっしりとしたドアをゆっくりと引いて開ける。薄暗い室内に、我々の立つ足元からなだらかに見降ろすように下に向い、すり鉢状になって半円形に並ぶ座席が目に飛び込んできた。そして、その中央の一番低くなった底にステージがあった。

 そうだ。このステージだった。
留学期間もあと何日かという頃、我々のホームステイをボランティアで引き受けてくれた米人家庭を招待し、そのステージ上で、日本文化の紹介をするパフォーマンスを演じた。そこで、お茶、生け花、柔道の乱取りなどを披露した。そして、メーンアトラクションとして、大学の演劇部の一員だった仲間の演出で「かぐや姫」を演じた。私も、そのステージに立った。かぐや姫に求婚する男性の一人となり、結婚の条件として要求された「燕の子安貝」を取りに行き、高い所から転落して死んでしまうという役どころだった。

 案内してくれた職員に礼を言い、大学を出る。
昼下がりの人気のない街を歩く。「かぐや姫」の練習をした後に仲間で入ったピザ屋があった。当時、日本ではまだ珍しかったピザを皆で頬張った。あの頃と同じ大きなピザを前に、「付きあって欲しい所がもう一つある」と、私は妻に頼んだ・・・ミシガン湖だ。

 あの頃行ったのは、どのあたりだっただろうかと、車を走らせる。しばらく走るが見つからない。ふと、どこか見覚えのある緑豊かな公園が目に入った。隣接するパーキングロットに車を止める。車から出て地上に足を降ろし外気に触れると、風景が懐かしく語りかけてきた。ここだ。ここがあの湖岸だ。皆で一緒に一人ずつ名前を大声で叫んだ、あの浜辺がある湖岸だ。

 公園の木立の中を、砂浜へと向かう。微かに急ぎ足になる。植え込みが切れた先に、砂浜への入り口が見える。人の背丈よりもだいぶ高い土手の向こう側にあの浜辺があるはずだ。と、その入り口を目の前にした時、突然、胸の中に何かが大きく広がった。身体がとても重く感じられ、歩くことができなくなった。「少し待って欲しい」と、妻に頼み、公園のベンチに倒れるように横たわった。
三十数年という時が私にのしかかる。そのあまりに長い年月に圧倒される。この年月は何だったのか?若かった頃の夢はどこに行ったのか。何者にもならなかった。取り戻しようのない時間がただ過ぎ去っただけではないのか・・・。しばらく動けなくなった。

 どれくらいの時間そうしていたのだろうか。身体を起こして座り直す。
少し離れたベンチに座る妻が見えた。遅い午後の日差しが、樹々の間から漏れ落ちる。木漏れ日が柔らかく揺れる中、妻は、何も言わずに私に付き合ってくれている。これが、あれから三十数年という時が流れた「今」だ。

 若者の他愛のない夢は時の流れと共に破れる。そして、人生の現実に向き合う。私もそんな多くの一人に過ぎない。ただ、あれから辿った道のりは、空虚ではない。良い事もあれば、時には切り立つ断崖絶壁やどこまでも続くかと思われるようなぬかるみもあった。決して平坦ではなかった。それだけに、過ぎ去った時が分厚く刻まれた年輪のようだ。そして、今、ここにあるのは、ヴァーチャルリアリティのような幻ではなく、触れることのできる確かな現実だ。
あたかもその「生き証人」の妻が、傍らでただ静かに座っている。私の感傷などどこ吹く風と涼しい顔だ。

 私は立ち上がり妻の元に歩み寄ると、「有難う」と短く感謝の言葉を伝えた。
ベンチの妻は私を見上げ、「もう、いいの?」と、わずかに口元を綻ばせ普段と変わらない穏やかな声で応じた。私は黙って頷いた。そして、あの浜辺の記憶を過ぎ去った想い出の一つとして胸の内に収め、砂浜に立ち入ることなく、二人で公園の道を駐車場へと歩き出した。(了)