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  連載 「一炊の夢」 ―最終回―


南見和華

2020年

4月「海」

2月「微苦笑」

1月:「後ろ姿」

2019年

12月:「赤い服」
―男と女―

11月:「同期生」

10月:「他人の顔」

9月:「よろしく哀愁」

7月:「曲がり角」

5月:「配所の月」

4月:「春を待つ」

「杉並の家 -死亡記事- 」

「お嬢さんを下さい」
と、言っただろうか、「お嬢さんと結婚させて下さい」と言っただろうか・・・。

 緑が生い茂る庭を臨む応接間に通された私は、この後、妻となる女性と隣同士に座り、掘り炬燵になっている大きなテーブルを挟んでその女性の両親と相対していた。
「まあ、まあ」と向こうの母親がにこにこしながら言うと、用意されていた手作りの料理が出された。
「君は、酒は飲めるかね?」と父親が言い、ビールが注がれた。
家族のことやら、仕事のことやら、趣味のことやら、色々と話をしたと思うが、今となっては何も覚えていない。多少の緊張を覚えたが、丁寧な言葉使いをしながら、若者らしいかすかな不躾さで相手の質問に応えていく。

 穏やかに時は過ぎていくようだった。小一時間が過ぎた頃、妻の名前を「さん」付けで呼んで話をしていた私に、突然、義父が「名前は呼び捨てでいいんだ」と言った。「結婚を許す」とか、「娘を頼む」とか、その類の言葉を最後まで発することがなかったが、おそらく、それが承諾の言葉だったのだろう。

 妻の実家の杉並の家を初めて訪れた時のことだ。それまで、一緒に会食した後など、門の外まで送ることはあったが、家の中に入ることはなかった。そして、その家に、海外駐在で日本を離れる期間があったものの、まさか三十年近く住むことになるとは、この時、想像もしていなかった。

 建築家でもある義父の設計によるその家は、白い壁とダークブラウンの梁がすっきりと組み合わされた、人の温もりが感じられる純和風の瓦葺の建物だ。住宅地にあって、周りの家並みから際立つことがなく、落ち着いた雰囲気で風景に溶け込んでいる。正面の門の左側は、壁の色と同じ白いシャッター扉のガレージが建物の一部となって組み込まれている。その左脇には大きな枇杷の木が立っている。表札が嵌め込まれた薄灰色の石造りの塀と白いシャッターの間に鉄格子の門扉がある。門を入りすぐ右のさして段差のない石の階段を三、四段上がる。そこは、玄関ドアの前で小振りの植木が施された小さなスペースとなっており、毎年初夏になると花が咲き乱れる薔薇の蔦が道路際まで庇となって覆っている。「土木」と「建築」と「造園」を総合化した都市計画を標榜する義父の思想が小さいながら自宅にも表れている。

 新婚の私たちは同じ杉並区内にアパートを借りて生活を始めたが、ほどなく私が最初の英国転勤となる。その駐在を終え帰国した時に、妻の実家に住むことになった。義父は、私たち夫婦のために、正面玄関とは別に新たに門と玄関を設けた。妻はその門に、名字がアルファベットで書かれた表札を出した。私の二人の息子もこの家で生まれた。後に、義妹家族も一緒に暮らすようになり、この家に、一時、三世代十人が住んだ。普段はそれぞれの家族が顔を会わせることはないが、正月や両親の誕生日になると皆が母屋の居間に集まり一緒に食事をする。小さい子供もいるので結構賑やかになる。義父はあまり多くを語らない。にこにこしながら子供や孫の様子を見ているが、適当なところで、「それじゃ」と言って、二階の奥の自分の部屋に戻って行く。

 宮大工の手になるというそのL字型の建物は、増築、増築の繰り返しで建てられた。以前の建物の限界であった雨戸用の溝の外側に建て増しをした部屋が繋がっていたりする。部屋数がやたらに多く、決して使い勝手が良いとは言えないが、実に人間臭い造りだ。私たちの家族の部屋から母屋までは、途中で三度曲がり角のある長い廊下で繋がっている。滅多に開けない小さな窓が一つあるのみで、廊下の壁の一面は蔵書がびっしりと並んだ書庫となっている。夜になり電気を付けないでいると真っ暗になり、子供達は幼い頃、その長い廊下が怖くて一人では母屋との行き来ができなかった。

 内庭は義母の好きな様々な植木が一見野放図に植えられている。天気の良い日は、麦わら帽子を被り割烹着を着た義母が、わざわざ米国から取り寄せた、高いところまで簡単に届くという触れ込みの長い剪定ばさみで枝を落としていた。五月の晴れた日には、咲き誇る八重桜の下に毛氈を敷き、女性陣の作った料理を並べ皆でお花見をした。はらはらと舞い散る少し濃い目のピンクの花びらが、思い思いに会話をしながら食べ物を頬張る皆を包んだ。義父はパイプ椅子に座って、いつものように口数少なく皆の様子を眺めていた。

 妻と二人の子供を連れ、二度目の英国転勤で杉並の家を離れた。駐在は五年に及んだ。その間、住人が半減した杉並の家は、活発でうるさい男の子供もおらず、ずいぶんと静かだったに違いない。駐在期間を終え帰国が決まると、義父は、長女の家族が今度ロンドンから戻って来るのだと、心待ちにしている様子で近しい人に話していたそうだ。帰国後しばらくしたある日、ふと部屋の窓から外を見ると、庭を測量している義父がいた。義父にとっての孫となる私の二人の息子が成長し、中学、高校と進学する日も近づき、さらに増築することを考えていたようだ。

 義父が亡くなってから二十年以上が経った。近年、もっと義父と話をしておけばよかった、という思いがする。義父とは、正月や、義父の誕生日などで、皆が集まった時などに、二言、三言、言葉を交わす程度だった。海外出張も多く、仕事で忙しくしていた自分に余裕がなかったことも事実だ。果たして、本当に向き合ったら話が弾まないという結果になったかもしれない。しかし、もう少し胸襟を開いて、義父の話しを聞いておけば良かった。

 私の実の父は、まだ働き盛りの時に病魔に倒れ、早くに他界していた。私が高校生になるとあまり話をしなくなり、その後、父が単身赴任で家を離れたため、会話をする時間はさらに減っていた。父がいなくなってしまうと、一体父のことをどれだけ知っていたのだろうか、という思いが過ぎった。酒好きだった父と、ゆっくり飲みながら話をしておけば良かったと悔やんだ。そして、義父が亡くなった今、私は、同じ後悔をしている。

 実は、義父と二人だけで話をしたことが一度だけあった。
私が、大きな悩みを抱えていた時期だった。そのことを察したのだろうか、ある日、妻から「父が、ちょっとあなたと話をしたい、と言っている」と告げられ、入ったことのなかった義父の部屋に入った。向かい合って座る私に、義父は「真っ直ぐ前を見て歩きなさい」と、穏やかに言った。「はい」と答える私に、「上を見て歩いていると、穴に落ちてしまうかもしれないし、下を向いて歩いていると、何かにぶつかるかもしれないからね」と義父は言った。助言が重くなり過ぎないようにと私のことを気遣ったのだろうか、その時の私には、本気とも冗談とも判然としない口調で、言葉を続けた。

 もう危ないのではないか、というタイミングだったのだろう、義母からの連絡があって、子供を連れて家族で病院に義父を見舞った。病院のベッドに寝ている義父はだいぶ弱っているように見えた。お見舞いに行った私たちは、「大丈夫ですか?」、「早く元気になってね」というお決まりの言葉を口にした。何か言いたいのだろうか、一瞬、義父は私を見つめた。いや、見つめたように思っただけかもしれない。その刹那、私は「長い間、有難うございました」と心の中で手を合わせ呟いた。あの時、口に出しておけばよかった・・・。いや、そうではない。もっと前の時点で、その気持ちを伝えておくべきだったのだ。 

 私の四十何度目かの誕生日の翌日に、義父は息を引き取った。そして、その翌日、いくつかの新聞に、義父の死亡記事が掲載された。

 それから数年して、義母も他界した。しばらくして、私たち家族は杉並の家を出た。

 「杉並の家」は今も当時のまま残っている。
だが、子供たちと一緒にガレージの屋根を伝って登り、妻が下から見守る中、実を捥いだ枇杷の木はもう実を結ばない。一年に一度、初夏の晴れた日を選んで、三世代の家族が揃って花見をした庭の八重桜も花を咲かさなくなってしまった。玄関から道路際の塀まで蔦が庇となり覆っていた薔薇は、今でも季節になると、家の正面で沢山の赤い花を咲かせているだろうか。(了)