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1893年、コロンビア万博で
世界のステージに頭角を現す
日本とアメリカ

• 世界史の中でも「偉大な万国博覧会」といわれるシカゴで開催された1893年のコロンビア万博。当時影響力を世界に示したかった日本と米国の、各々の原動力となった人々を結び付ける「グルー」は何だったのか、また、そのメッセージは何だったかについて、イリノイ・ステイト大学の元教授ハワード・J.・ロマネック氏が7月10日、アーリントンハイツのホリデー・インで講演した。ロマネック氏はシカゴ日米協会の理事を務め、教育プログラムの一員でもある。同イベントはシカゴ日米協会が主催した。

• ある国の文明が進む時、社会が変わる時、その国自体が変わる時、変化の原動力となるもの、人々を結びつけて動かすものをロマネック氏は「グルー」と呼ぶ。例えば、かつての中国のグルーは儒教だった。今はナショナリズムかも知れない。
• 1851年に英国で開催された万博はガラスの建物「クリスタル・パレス」で世界に印象付けた。英国は万博開催により、セグメントに分かれていた社会を固めた。
• 1876年にフィラデルフィアで万博が開催された。これはアメリカのレボリューションから100年を祝うもので、過去を振り返るものだった。
• 1889年にはパリで万博が開催され、新技術の粋を集めて建設されたエッフェルタワーが世界をアッといわせた。

• 1893年はコロンブスの新大陸発見から400年の翌年に当たる。新発見を祝う一方、アメリカは世界に対し、アメリカの偉大さを見せながら世界のリーダーシップをとる国としてその姿を示したかった。そのメッセージは「旧世界のリーダーシップを新世界に渡す」ということだった。
• 多民族の移民からなるアメリカは常に緊張感があった。世界のリーダーシップをとるというメッセージを掲げると共に、アメリカは市民にその国の一員であるヴィジョンを描かせ、愛国心を促進した。
• シカゴ市は20世紀の新しいタイプの都市として猛烈に連邦議会に働きかけ、開催地となった。シカゴ市には21階建てのビルがあり、世界を驚かせる近代都市だった。

• シカゴ市と連邦政府の万博への招待にいち早く反応したのが日本だった。明治維新からわずかに四半世紀を経たばかりの日本は、短期のうちに西洋から学び追いついた近代国家であることを世界に示し、西洋諸国と交わしている不公平な条約の修正を望んだ。同時に野蛮な国というイメージを払拭し、長い歴史に育まれた文化、芸術、美術、建築の粋を日本のアイデンティティとして世界に示したかった。そしてもう一つ、日本はアジアのリーダーシップを取ることを世界に示そうとした。
• 日本は外国の参加国で最大の65万ドルを万博のために拠出した。これは現在に換算するすると1,365万ドルとなる。

• コロンビア万博は1893年5月1日に開園した。入場料は大人50セント、子供25セント、6歳以下は無料。当時の1ドルは現在の24ドルから25ドルに当たるとロマネック氏は見ている。6ヶ月間の開催中の入場者は2,750万人。敷地面積は633エイカー。総経費は2,724万5,566ドル90セントだった。現在に換算すると約6億ドルになる。

• 西洋の素晴らしいビルディングが立ち並ぶ会場で、ハイライトは一等地に建設された鳳凰殿だった。平等院の鳳凰堂を模したもので、日本で建設したものを解体して運び、大成建設の大工ら50人余りがコロンビア博会場で組み立てた。
• 鳳凰殿を囲む池には鳳凰を船首につけた屋形船が運航し、ティーハウスもあった。

• 最新技術と文明の粋を集めたコロンビア博の一角に、人食いの習慣を持つダホメ王国の展示もあった。これは先進国の文明とまだ文明化されていない国との違いを顕著に示すものとなった。
• コロンビア博は世界から高い評価を受けて閉会した。閉会後、鳳凰殿は日本政府よりシカゴ市に友好親善のしるしとして寄付された。
• コロンビア万博会場に残された建築物は貧困者の住みかとなり、翌々年の1895年7月5日に火事により焼失した。ビルディングは万博用の一時的な建築物ではあったが、焼失は惜しむべきことであった。
• 鳳凰殿は1895年の火災からは焼失を免れたが、1946年に焼失し、4枚の欄間のみが残った。これらはシカゴ美術館のジャニス・キャッツ氏により修復され、シカゴ美術館のジャパン・ギャラリーに展示されている。
• 果たして日本は、コロンビア博参加により日本の国力を示すことができたのだろうか。

• (フルストーリーは7月25日号でお読み下さ


ハワード・J・ロマネック教授

1893年10月9日の万博入場券
ロマネック氏のコレクションより
コロンビア博のビルを背景に優雅な姿を見せる鳳凰殿

鳳凰殿のインテリア