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楽しくスケートを教えたい!
菊田実希さんインタビュー


• 若くても独り立ちしアイス・スケート・コーチとして活躍している、菊田実希さんにお話を伺った。
• 「シカゴはスケートリンクが多い方で、スケートが盛ん。日本ではできない楽しい思いをさせたいからと駐在の日本の方々が子どもさんを連れて来られます。クラブ費用など金銭的にも日本とは全然違うんですよ」と菊田さんは語る。

• 菊田さんがアイス・スケートを始めたのは5歳の時。親に連れて行ってもらったのが切っ掛けで、スケートが大好きになった。スケートを続けたいという気持ちが強く、教室に入って習う事になった。
• 菊田さんの父はココ・テイラーのバンドのリードギタリストだったシュン菊田。テイラー亡き後は米国、台湾、中国、日本などでツアーを続けている。母はスポーツ記者として有名な梅田香子さん。忙しい両親を持つ菊田さんにとってアイス・スケートは“ベビー・シッター”だった。

• 10歳の頃、スケートの村主章枝(すぐり・ふみえ)選手が菊田家にホームステイしていた。トリノ・オリンピックで4位になった、あの村主選手だ。シカゴに来た村主選手はオレグ・ワシリエフに学んでおり、菊田さんもワシリエフに学ぶことになった。

• 菊田さんが出場した数々の大会やアイス・ショーの中で思い出深いのは、小学5年の時に東京ブロックのリージョナル予選で1位になり全日本大会に出場したこと。
• リージョナル予選は10月だったが、その前の6月に長野県の野辺山でスケートの合宿があり、シカゴから参加した。100人から200人が集まるその合宿でシードを獲得すれば予選が免除され、全日本大会に出場することができる。その枠は6人。残念ながら菊田さんはその6人に選ばれなかった。
• 悔しさを胸にシカゴに戻り、練習を積んで10月の予選に臨み、見事に1位を獲得した。合宿でシードを獲得した子は同予選で3位となり、菊田さんは「凄い!」と言われた。
• 全日本大会まで一旦シカゴに戻り、学校の修学旅行を楽しんだ。そして大会の1週間前に日本へ行ったが、時差ぼけで身体が思うように動かず、全日本大会での成績はさえなかった。

• なんと言っても一番思い出深いのは、中学3年の時に福岡代表として国体に出場したこと。
• 菊田さんは中学になってから母と共に福岡に住んだ。福岡代表として選ばれたのは菊田さんと、有名なフィギュアスケート選手・南里康晴の妹、南里美羅さんの2人だった。
• 国体の予選は京都で行われ、そこに行くのも楽しみだった。しかし、予選で落ちれば国体には出場できない。先生から「ダメだったら歩いて福岡に帰れ」と言われ、プレッシャーも大きかった。菊田さんは「普通の試合で負けるのは自分のせいですが、国体の場合は負けると選ばれなかった人達に失礼なんです。『自分の方がいい成績を出せた』と思う人がいるかも知れませんから」と話す。
• 菊田さんら2人は何とかプレッシャーを克服し、予選を勝ち抜いた。

• 国体は北海道の釧路で行われた。菊田さんにとって釧路に行けるのは、とても楽しみなことだった。この時、2008年と2009年のオンドレイネペラメモリアルで優勝した中庭健介選手も青年男子の福岡代表として出場していた。
• 教える立場になった菊田さんは「まず、伝えることが難しいですね」と語る。例えば3歳の子どもはまだ右と左を習っていない。「なるほどなぁと思ったりします」と微笑む。
• 教えている人の成長を見るのが楽しみだという菊田さんは「覚えが早い、早くないというよりも、転ぶことを怖がるか怖がらないかで成長が違いますね。怖がらない子は早いです」と話す。子どもにとって楽しくスケートを習うことも大切なこと。「前のコーチはとても厳しかったので子どもが行きたがらなくなり、菊田先生の所に来ました」とスケートリンクで話すお母さんもいた。

• 菊田さんは「一番嬉しいのはお母さん方が相談してくれることですね。日本人だから話しやすいし、だから人としても信頼してもらえると思います。いいコーチになるだけでなくて、いろいろなことを相談してもらえるコーチになりたいと思います。日本に帰っても困らないように、何々県だったら、こういう場所があって、こういう先生がいると教えられます。他のシカゴの先生にできない、役に立つコーチになりたいと思っています」と語った。

• フルストーリーはシカゴ新報10月10日号でお読み下さい