日本語メインに戻る
アメリカで日本の伝統食品販売にチャレンジする

インタビュー:清水和生氏
キッコーマン・フーズ

• ウィスコンシン州ウォルワースにあるキッコーマン・フーズ社の社長兼CEOの清水和生氏にお話を伺った。清水氏はシカゴ日本商工会議所(JCCC)の会頭も務めている。
• 清水氏は1953年大阪市生まれ。関西学院大学経済学部を卒業後、1978年からウィスコンシン大学マディソン校に私費留学、1979年末にMBAを取得した。
• 海外に出て仕事をしたいという夢は10代の頃から持ち続けていた。高校時代には英会話部に属し、1970年に開催された大阪万博に出かけては英会話にチャレンジしたこともあった。
• 大学時代に一人でアメリカ一周旅行をしたこともある。当時、99ドルで乗り放題だったグレイハウンド・バスで、文通していた友人を訪ねて転々と旅行した。その時にUCLAやブリティッシュ・コロンビア大学、ハーバード大学などを見て回り、いつか米国の大学で勉強したいと思った。20歳の頃だった。
• そして、留学するならば日本人留学生が少なく、どっぷりと英語に浸かれる所に行きたいと中西部を選んだ。ウィスコンシン、インディアナ、オハイオ各州の大学に願書を出し、最初に受け入れ通知が来たのがウィスコンシン大学だった。
• 留学中、既にキッコーマンのウォルワース工場はあった。大学の指導教授も当時海外事業部長だった茂木友三郎名誉会長と面識があり、キッコーマンを勧めてくれた。チャレンジ精神旺盛だった清水氏は複数の会社で就職試験を受け、キッコーマンを含む数社から内定を受けた。その時に、醤油という典型的な日本のものをアメリカで売るというチャレンジングな仕事に惹かれ、1980年にキッコーマンに入社した。

• 1985年にはJFCニューヨーク支店に転勤となり、営業や仕入れを担当した。キッコーマン醤油はキッコーマン・フーズが製造し、キッコーマン・セールス・USAが販売を行っている。そして、100%の子会社JFCがディストリビューションを行っている。米国で製造・販売・流通を持つのがキッコーマンの強みだと清水氏は語る。

• キッコーマンは日本企業の先頭を切って海外に進出し、米国では1957年からマーケティングを開始した。当時から日本の人口は伸びないと見ていた。実際に日本に於ける全醤油出荷量のピークは1975年で、現在はピーク時の約3分の2になっている。半世紀以上前にキッコーマンが見据えた通りとなった。
• キッコーマンの基本スタンスは少数派のオリエンタル食品としてではなく、醤油をアメリカの一般市場に浸透させること。最初は「Delicious on Meat」をキーワードに、その後は「All Purpose Seasoning」をキャッチフレーズにマーケティングを粘り強く展開して行った。
• 最初のサンフランシスコ支店から、ロサンジェルス、ニューヨーク、シカゴ、アトランタと支店を確立して行った。
• 化学的に製造される醤油は元々米国で販売されていた。しかし、本醸造によるキッコーマン醤油の色・香り・味の違いが一般市場にも理解されるようになり、1980年代半ばにはマーケットシェアを逆転し、キッコーマン醤油が米国ナンバーワンとなった。
• 一方、カリフォルニアロールの人気を皮切りに寿司ブームが広がり、醤油の出荷量も増えて行った。また、「テリヤキ」という言葉が英語に溶け込むほどテリヤキメニューが増え、キッコーマンも照り焼きソースでマーケットを開拓して来た。今や米国内の殆どのスーパーでキッコーマン製品が販売され、ソイソースと言えば「キッコーマン」の呼び名で親しまれている。

• 清水氏はニューヨーク支店に8年間滞在した後、本社に戻った。その後、ウォルワース工場の最高経営責任者として2008年7月に赴任した。留学時代のホストファミリーとの再会を喜んだのも束の間、マーケティング畑の清水氏にとって新たなチャレンジが始まった。
• 1973年6月に初出荷したウォルワースの工場はその後順調に伸び、昨年6月には創立40周年を祝った。
• しかし、清水氏は着任早々、未曾有の不景気を経験することになった。着任2ヶ月後の9月にはファニーメイが破綻、10月にはリーマンショックが起きた。全米の景気が一気に冷え込み、流通業界では一斉に在庫調整に入った。これにより、醤油の注文もスローダウンした。
• 清水氏は経営責任者として損益を見なければならない。利益を確保するために工場人員のスリム化を図り、勤務体系のシフトを変え、人員を増やさずに製造量を上げて対処した。リーマンショック前のレベルに戻るまで、約3年を要したという。
• しばらくすると、中西部は二年続きの干ばつに見舞われ大豆やトウモロコシが本来の相場の1.5倍強の高値となった。ある程度の生産量はあるものの、中国の引きが強く相場が下がらない状況が続いた。清水氏は「本当に苦しかったですね」と語る。
• 今年は好天に恵まれ、農家も大豆の栽培を増やした。このため過去最高の生産量が見込まれ、やっと相場が落ち着き始めた。
• 金融業界による波乱、自然災害によるコスト高といろいろなハードルが行く手に現れる。清水氏は「一人ではできない。人事や購買担当はアメリカ人。彼らに仕事をしてもらわなくてはならない。私は経営責任者ですから苦労というほどの苦労はないんですよ」とにこやかに話した。
• ウォルワースの工場には約160人が働いているが、日本人は8人のみ。全米にある販売拠点でも日本人は10人弱。キッコーマンの基本は現地化だという。清水氏は「事業の継続を考えると、現地の人を育てないといけない。うちの工場で42年前の一期生はさすがに退職していますが、まだ数名は40年近く勤めています。長く働く人は多いですよ」と語った。

• ウィスコンシンのウォルワースと言えば遠い感じがするが、
• オヘア空港から1時間半と意外に近く、会頭を務めているJCCCの会合への出席も負担にならない。「JCCCは歴史ある組織であり、事務局もしっかりしています。JCCCが母体になっている双葉会は大切な運営で、ここが大切な基盤だと思っています。ここに出てきている我々の一つの責務ですね。会頭としての負担はありません。一番大変なのは事務局や実動部隊の方々だと思います」と語った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

• ウォルワースのキッコーマン・フーズでは近年、一般の工場見学受け入れを止めている。食品テロの懸念などからFDAの規制が厳しくなり、工場敷地内の周りにはフェンスを巡らせ、外部からの立ち入りもゲートで厳しくチェックしている。
• シカゴ新報取材時には清水社長と大浦工場長のご厚意により、身体をすっぽりと覆う形で工場見学を許可してもらった。
• 工場に入る前には靴底を洗い、円筒状の洗浄機に手を入れて洗う。香ばしい匂いが漂う工場内部は総てが「清潔」だった。

• 醤油は蒸した大豆と煎った小麦にキッコーマン特有の麹菌を混ぜ、塩水を合わせてタンクに入れ約半年寝かす。その間に麹菌がゆっくりと働き、タンパク質やデンプンが総て醤油になる。
• 工場内に林立する巨大なタンク1本の中に、1リットル入りのペットボトル10万本分の醤油が仕込まれている。
• 約半年後、成熟した醤油を長い袋状の布に入れ、圧搾機で絞っていく。絞った醤油に火入れをし、最後に瓶詰めされる。

• 工場内には誰かが異物を持ち込めないように、フード・ディフェンスとして至る所にカメラが設置されている。また、洗浄剤などの化学薬品は総て施錠されたフェンス内に保管され、勝手に抜き取ることができないようになっている。2年前に食品安全強化法が施工され、さらに厳しくなったという。

• こうして安全な工場で作られた醤油は、やがてスーパーやレストランに届けられる。新しい醤油は赤紫色で透明感がある。醤油は腐ることはないが、一度栓を開ければ鮮度が落ちて黒くなる。いつまでも新鮮な醤油の色と香りを楽しむためには、開封後は冷蔵庫に入れた方がよい。

• キッコーマン醤油は食卓で使う以外に、オリエンタル以外の加工食品、冷凍食品、ドレッシング、バーベキューソースなどの中に入っている。同じ塩気を付ける場合に、塩で味付けするよりも醤油で味付けした方がトータルの塩分摂取量が遙かに少なくなると言う。塩気と同時にうま味も確保でき、これがキーポイントとなって数々の加工食品に使われている。

• 最後に清水社長は、キャラメル味のアイスクリームの作り方を教えてくれた。バニラアイスクリームに醤油を一滴落として混ぜるだけ。醤油の中にはいろいろな香りのエッセンスが入っており、味を調える力があるからだという。ぜひ一度お試し下さい。






清水和生氏
キッコーマン・フーズ社 社長兼CEO