日本語メインに戻る
大型インタビュー:岩藤俊幸総領事
パキスタン、ジュネーヴ、海賊法制、
そしてフィンランドへ

• 3月末に着任した岩藤俊幸(いわどう・としゆき)在シカゴ日本国総領事にお話を伺った。
• 岩藤総領事は1956年に東京で生まれ、小学校から高校まで岡山市で育った。1982年に東京大学大学院農学系修士課程を終了後、外務省に入省した。

• Q:ニジマスの研究をされていますが、それは東大大学院時代ですか?
• 岩藤総領事:そうです。魚の養殖場である種の長桿菌が稚魚につくと何万匹もの魚が全滅してしまいます。エラの細胞が急に増殖して水と血管との間が広がり、酸素が取れなくなって死亡するという仮説を立て、それを科学的に証明する研究をしていました。
• それだけでは魚を救えないので、救済法も提案しました。自然界にたくさんいる細菌なので排除するのは難しい。1週間位で消える細菌なので、その間に水の流れを良くしたり、酸素を送り込めば魚の全滅を回避できる訳です。そのような研究で論文を出しました。

• Q:研究者なのに外務省に入られたのは?
• 岩藤:小さい時から魚が好きでした。農水省の水産庁の中に魚の試験場があったので、そこに行こうかと学部生の時に国家公務員試験を受けて合格しました。その権利を2年間留保できるので、上記の研究をした訳です。
• その頃に国連海洋法条約を先取りする形で、200海里時代に突入しました。遠洋漁業を行っていた日本では他国の200海里内で操業できるように多くの交渉が必要になっており、外務省が魚の知識を持ち合わせた外交官を求めていたことから、私もその関係で外務省に入ることとなった一人でした。大学時代とは違う世界になりましたが、根が楽観的なので人間は何をやっても大丈夫だろうとこの仕事に就きました。

• Q:カリフォルニアが最初の海外派遣だと聞きましたが。
• 岩藤:外務省の研修制度で1年間英語を勉強して来いということだったと思います。1985年から86年にかけてのことでした。

• Q:その後は?
• 岩藤:1986年から1989年まで、カナダのオタワにある日本大使館に赴任しました。この間にトロント・サミットやモントリオールでGATTの中間レビュー閣僚会議がありました。米国は隣にある大国なので公私共に関心があり、ニューヨーク、ワシントン、シアトルなどに行きました。

• Q:カナダ大使館勤務後は?
• 岩藤:当時は外務省に経済協力局技術協力課という部署があり、そこで1989年から93年の初めまで、当時特殊法人だったJICAの予算や定員・機構を担当する部署に就いていました。JICAの事業は政府間の国際約束に基づいて実施されていたので、国際約束を取りまとめる部分は外務省に存在していました。
• この仕事を通じて、アフリカやカンボジアなど、あちこちに出張しました。
• カンボジアでは内戦が終結した直後で、その国の国際社会復帰を支援しようと日本のいろいろな分野の専門家を送り込んだり、アジアの周辺国が復帰に協力する三角協力が始まった時期でした。支援を受ける国は支援を歓迎しているので、激しい交渉はありませんでした。

• Q:その後1993年からアフリカ二課に移られたそうですね。
• 岩藤:初めてのアフリカ開発会議を開催したのが93年で、その会議の準備に取り組みました。既存の制度を上手く組み合わせて作れないかと模索し、当時としては新しかった南南協力を取り入れました。アジアで発展しつつある国々はODAのような事業を展開したいという意識を持っていて、アフリカも支援相手が広い方が助かる。そこに日本も一役買いましょうといいうことで、アジアとアフリカ間の協力を上手く促進する事業をやりました。日本で南南協力という名前を公に打ち出したのは初めてではないかと思います。

• アフリカ二課でもう一つ印象に残っているのは、南アフリカのマンデラ大統領を国賓として日本にお迎えすることに携われたことです。南アフリカに招待状を届けに行きました。マンデラ大統領はずいぶん大きな人で、190センチ以上はあったと思います。日本にお迎えした時はアレンジをする担当だったので、残念ながら大統領を見る機会はありませんでした。

• Q:その後は在パキスタン日本大使館に?
• 岩藤:分析一課を経て、1998年から2001年までイスラマバードにある日本大使館に勤務しました。

• Q:そこで猛暑を経験されたわけですね。
• 岩藤:最高気温はいつも49度と出ていました。どう考えても昨日より今日のほうが暑いと思っても49度なんです。50度と言ってはいけないようですね。車のドアを開けようと取っ手を握るとやけどする事もありましたね。

• パキスタンが98年6月3日に核実験をやりました。その直後に内示を受け、9月28日に着任しました。ですから核実験は経験しませんでしたが、弾道ミサイルの実験、軍事クーデター、ロケット爆弾テロもありました。独立記念日には式典で爆弾が爆発し、私も砂をかぶりました。
• イスラマバードは計画都市ですから綺麗な町で、所得の高い人たちが住んでいる所です。爆弾が爆発するのはいつものことでしたが、危ない所に行かなければ大丈夫でした。

• Q:文化交流なども行われていたのですか?
• 岩藤:あったけれども、なかなか難しかったですね。核実験をやった後で経済協力の資金援助はストップしました。それまで現地入りしていた日本のコンサルタントや建設関係者達が引き上げて、日本人学校の生徒も激減しました。一番苦しい状態だったので、厳しかったですね。

• 良かったのは、青年海外協力隊の人達が30人ぐらい居たのですが、彼らは元気に活動を続けていました。制裁が行われている間にも、できる範囲で支援が行われていたんです。厳しい状態だっただけに結束が固く、未だに当時の人達が集まります。シカゴに赴任する前にも日本各地に散らばっている人達が集まって、歓送会をしてくれました。

• 事件といえば、インド機のハイジャック事件がありました。日本人の方が一人乗っていましたが、無事に生還されました。
• その時にハイジャッカーとインド政府の交渉を把握して日本人の無事を見届けるためにタリバン支配下にあったアフガニスタンのカンダハール飛行場に泊り込みました。人質が解放されたのが1999年12月31日です。2000年になるとコンピューターに支障が出るかもしれないので飛行機に乗るのは出来れば避けようという2000年問題があった時でしたが、1月1日の飛行機に乗ってパキスタンに戻りました。

• Q:ご無事で何よりでした。それからジュネーヴ国際機関日本政府代表部参事官として赴任されたそうですね。
• 岩藤:2001年から2003年まで赴任しました。
• (先進国と発展途上国との経済格差是正のために活動をしている)UNCTADをやるんだろうと思っていましたが、WTOと両方をやることになっていて、着任した夏にドーハでラウンド交渉の開始が合意されました。ご存知の通り、今日に至るも結着出来ていません。その交渉の始まりの年に赴任して、一番最後が決裂でした。帰国の辞令をもらった後でカンクンで開催されたWTOの閣僚会議に出張したのですが、会議日程の一日前倒しで交渉決裂。非常に悲しい思いをして帰って来ました。
• 私が担当していたのは交渉そのものではなく開発アジェンダと呼ばれている部分で、要するに途上国配慮の部分でした。WTOというのは経済活動のルールを決めている所ですから、UNCTADはWTOの足を引っ張っているように見える。同じ国際機関の中で、途上国がらみの案件をWTOの中で対応しながら両方とも担当するというのは、なかなか難しいなと思いました。
• それが決裂し、やはり溝はとても深く、いかんともしがたいことでした。無力感・脱力感もありましたね。
• その時に顔を合わせていたニュージーランドの次席が、今駐日大使になっています。当時のニュージーランドのジュネーヴ大使が、今本国で経済担当の大臣をやっています。不思議な関係があるものだなと思いますね。

• Q:帰国後は魚関係の仕事に就かれたそうですね。
• 岩藤:2003年に帰国して、経済局で漁業担当室と海洋法担当室を兼任する形になりました。その時には鯨、黒マグロなどの話がありました。
• 2003年から2006年にかけて捕鯨会議の日本政府代表代理をやりました。捕鯨問題は資源問題ではなく,やはり感情的なんですね。イルカ・鯨は知能が発達しているから殺すのはかわいそうだというわけです。イルカと鯨の線引きは実際には非常に難しいんです。
• しかし、数は増えているわけですから、捕鯨問題を科学的根拠で何とか合意できないかと思っていましたが、どうにもならない世界でした。

• Q:この頃「正しい事はびた一文マケません」というインタビュー記事が出ましたね。
• 岩藤:まさに捕鯨の問題です。感情的に主張していたグループは、減っているから捕獲を止めようという主張に変えました。増えているのは事実なのに、それさえ認めずに議論するのはおかしいでしょうということです。発言には責任を持てという意味で、それを言ったんです。

• Q:黒マグロはいかがでした?
• 大西洋の黒マグロについては、獲れなくなれば漁業者のダメージが大きい訳ですから、科学的根拠に基づいて漁獲を抑えるべきだという論を水産庁と協力して張り、違反取締りの強化を主張して、この問題にしっかりと対応しました。
• 国連海洋法条約の関係では、大陸棚問題と言うのがありました。ここは自国の大陸棚だと国連機関に申請して認められれば、大陸棚が伸びるという性質のものです。ですから地質学者などの意見を聞きながら申請のやり方を検討していました。一方、他国の申請にも目を配っておく必要がありました。


Consul General Toshiyuki Iwado

• Q:その後外国人課に?
• 岩藤:そこで約1年半、課長をやっていました。元々はビザを発給する部署だったですが、日系ブラジル人問題などで社会問題も含まれて来ました。
• 研修で来ている外国人にそれ以外の労働をさせるなど、対外的な問題に発展しそうでした。また、外国人労働者が多い町では、学校の授業が日本語では成り立たない事態になっており,国内的にも無視できなくなっていました。
• この様な問題に対処するために、移民受け入れを上手くやっていると言われていたドイツや他の国々の関係者を日本に呼んでシンポジウムを開きました。日本の国民の間で、このような問題があることを共有してもらう機会になったと思います。受け入れる側も、やって来る側もそれぞれの認識が必要ですから、意味あることをやっていると実感できるポストだったと思います。

• Q:その後は?
• 岩藤:2007年から内閣官房の総合海洋政策本部事務局で参事官をやりました。昔からやりたかった海賊法制を手掛けることができました。
• ちょうどソマリア沖で海賊問題が頻発していて、新たな海賊法が必要でした。国連海洋法条約の中には、海賊はどこの国が取り締まっても構わないと言うことが書いてあります。その条文からソマリア沖だけでなく、全ての海域の海賊を取り締まれるような日本の法律作りを担当させてもらいました。苦労はしましたが、やりがいのあることでした。それが「海賊行為の処罰及び海賊行為への対処に関する法律」です。
• 要するに自衛隊部隊が領土・領海を越えて外国に行った時の活動については、特別な法律によってそれを可能にしています。日本の商業船舶に自衛隊の船が並走しているのがそれです。特にソマリア沖は海上保安庁のみではとても対応できないことも考えられることから,それに備えて自衛隊の船舶の派遣が必要だということを国会で認めて頂き、未だに続いています。

• Q:海賊の次はフィンランドに?
• 岩藤:2009年から2012年までの3年半、ヘルシンキにあるフィンランド大使館に勤務しました。次席ですから何でもやらせて頂きました。

• Q:フィンランドはどの様な国ですか?
• 岩藤:人口約530万の小さな国ですが、教育レベルが相当に高く、労働力の質が高い国です。そして元々真面目で誠実な国民性です。ですから日本企業がフィンランドに安心してオフィスを開ける。そこを拠点に周辺国に進出する企業が多く、ハブのような位置づけになっています。
• 日本から毎年約10万人がやって来ます。若い女性にはムーミン・ワールド、北の方ではサンタクロースやオーロラが人気で、メルヘンチックな国です。

• Q:在任中に東日本大震災が起きましたね。
• 岩藤:まず、飛行場に連絡してブリーフィングをするスペースを確保しました。震災発生前に日本を発ち、ヘルシンキに入ってこられる人達が大勢いました。混乱が起きないように、いち早くその人達に状況を説明する必要があったんです。日本へ戻ろうとする人にはそのお手伝いをしました。ヘルシンキは北欧の中ではハブ空港がある首都なので、人々が各国各地に散ってしまう前に情報提供をする必要がありました。

• Q:義捐金活動などもあったのですか?
• 岩藤:勿論です。とても親日的な国ですから。ロック・ミュージシャンのマイケル・モンローがそのためだけにコンサートを開いてくれました。
• 当時のニーニスト国会議長(現大統領)が本会議で弔意を表してくれました。歴史上2回目のことだそうです。ニーニスト氏はバリ島で大地震が起きた時にタイの島に居て,電柱によじ登って助かったという人で、良き理解者でした。大使館にもハロネン大統領(当時)をはじめ,多くの人々が弔問記帳に来られました。震災は大変な悲劇でしたが,フィンランドの方々の暖かい心に触れることが出来ました。

• Q:文化交流も盛んだったのですか?
• 岩藤:楽しかったですね。大使は素晴らしい方で音楽好きだったので、音楽交流もたくさんありました。柔道創立40周年、合気道創立30周年があった他、剣道も弓道の交流もありました。
• 何しろ日本大好きという人達が多く、週末にはコスプレを楽しむ人が大勢いました。今でも(コスプレの)セーラー服を着て飛行機で日本へ来る女の子が何人もいると思いますよ。

• Q:フィンランドの人々は?
• 岩藤:一般には相手を思いやる温厚な人達だと思います。言葉が通じなくても平気です。冗談で英語は日本人の次に下手だと言われた時期もありましたが,英語教育に力を入れて、今は都市部と若者の間では立派な英語が話されています。
• フィンランドはいい所です。金持ちでなくても別荘を持っていて、サウナに入って湖に入るという楽しみ方をしています。

• Q:メルヘンチックな土地で、ロマンスはなかったのですか?
• 岩藤:残念ながら、ありませんでした。
• でも、大使館の職員だった人達が合計で6人ほど日本に遊びに来てくれました。家の近所にある焼き鳥屋ではフィンランドのお客さんが行くと、フィンランドの国家を流して歓迎してくれます。フィンランドはファンになる要素がいっぱいある所ですよ。

• Q:フィンランドから日本へ帰られたのですね。
• 岩藤:2012年から衆議院事務局の国際部長をしました。自民党が大勝した時でした。
• 国際部は議長、副議長、議院選管委員会の委員長などの指示を受けながら、国会議員の方々の対外的な活動に関わる調整をする所です。議員の方々は日本国民の代表ですから、いろいろなところに行って知見を広げて頂きたいと思って仕事をしました。議員の方々も海外ではびっしりと詰まったスケジュールをこなし、大変熱心に勉強されていたと思います。

• Q:2014年に地球環境戦略研究機関を経てシカゴに来られたわけですが、シカゴはいかがですか?
• 岩藤:日本人のイメージは西海岸と東海岸に向いていると思っていましたが、日本人の認識がずれているのだったら正しい方に持っていけたらと思います。
• イースター・サンデーには近所の人に呼ばれ、いろいろな人に紹介してもらいました。全く威張る感じがなく、疑問を感じたら率直に質問して来られるし、とても共感を覚えました。その中にはシカゴランドの女性として初めて大企業のCEOとなった方もいらっしゃいました。

• Q:シカゴでの抱負をお聞かせ下さい。
• 岩藤:これだけ日本に関心を持って応援して頂いている環境が既にあります。できる限りそれが広まっていくようにしたいと思います。
• そのためには独りよがりにならず、いろいろな方々の意見を常に聴いて、誠実に対応していくことに尽きると思っています。

• Q:最後に身長は?
• 岩藤:176センチ。

• Q:ご趣味は?
• 岩藤:山歩きなど、アウトドアが好きですね。今までに登った一番高い山は南アルプスにある北岳。3,192メートルです。残念ながら富士山にはまだ登っていません。
• 渓流釣りを続けるために、ジョギングや筋トレもやっています。山奥に入って行きますので。
• ハーフマラソンも今までに5回出場しました。

• Q:長い間、どうもありがとうございました。