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シカゴ新報創刊70周年を祝う
シカゴ新報記事を通して見る
歴史プレゼンテーションも

• シカゴ新報は11月14日、70周年記念式典をダブルツリー・ヒルトン-アーリントンハイツで開催し、約110人が祝賀のテーブルに着いた。
• シカゴ新報は1945年11月15日に藤井寮一によって創刊された。中河頼覚、増田志直、杉本幸八郎、菅野武雄、菅野昭子によって引き継がれ、2000年から浦山美子によって発行されている。その総発行回数は今号で6025回を数える。
• 式典では柳井啓子首席領事、エドワード・グラント・シカゴ日米協会プレジデント、トーマス・ヘイズ・アーリントンハイツ市長、寺田哲也JCCC会頭を来賓に迎え、ゲストスピーカーの尾崎元・共同通信ニューヨーク支局長が「戦後70年の日米関係」について講演した。
• その後、シカゴ新報の記事を通して見る「シカゴ・中西部70年の歴史発展と日米関係」について、パワーポイントプレゼンテーションが行われた。

• 挨拶に立った浦山美子シカゴ新報社長は「70年のシカゴ新報の記事をめくると多くのイベントが開催されており圧倒される。それらの記事によって、良い市民に、良い住民になろうとする先駆者の努力、日米相互理解やビジネス促進、そしてビジネスを通じて互いに利益が得られるようにと努力する日本・日系コミュニティの人々の活動が良く分かる」と述べた。
• また、「今日は70年のシカゴ新報の仕事を誇りに思わせてもらいたい。コミュニティの活動が記録として記事に残っていなければ、その記録は失われていたかも知れない」と語った。
• 更に「昼食後に行う歴史プレゼンテーションの中で、自分の姿や友人・知人の姿、また知らないイベントに出会うだろう」と述べ、この機会に70年の出来事を分かち合いたいと話した。

• 柳井啓子首席領事は、70年前の創刊号はプレスのストーリーの始まりであり、毎回読まれて来たであろう新報は、新聞紙としてまたはマイクロフィルムとして存在していると述べ、シカゴの日本・日系コミュニティの特記すべき窓だと語った。
• また、2000年からシカゴ新報を引き継いだ浦山社長は高い基準を設定し、期日通りに新聞を発行しており、その記事は正確で活動的であり、人間味を備えていると祝賀の言葉を贈った。

• エドワード・グラント氏は「インスティテューションズ」「記録」「目的」についてシカゴ新報の役割を話した。
• インスティテューションとは学校や教会、飲食店などのようにコミュニティを繋ぐ役割を果たす施設・設備を言うが、シカゴ新報はカギとなるインスティテューションの一つ。
• 記録(original record)については、ニューヨーク・タイムズが記録を残す新聞だと言及される。グラント氏は「私は多くのイベントに参加するが、浦山さんの記事を読んで驚かされる。非常に正確で広範囲に亘ってレポートし、シカゴ新報の記録を残すという伝統を守っている。私の見解として、ニューヨーク・タイムズと同じ事を実践していると思う」と語った。
• 目的についてグラント氏は「日米友好、相互理解の促進という日米協会と類似したこの上ない重要な目的を分かち合っている」と述べ、「シカゴ新報は歴史の一部であり、我々はその労力と能力の恩恵にあずかっている」と語った。

• トーマス・ヘイズ市長は「アーリントンハイツは日本コミュニティを公式に歓迎する。特に今回は長年の間米国、特にアーリントンハイツにいるシカゴ新報を祝したい」と述べた。また、「アーリントンハイツはすべてのコミュニティー・パートナーを尊重し、確立された日本コミュニティとの友好関係を喜んでいる。日本コミュニティはアーリントンハイツに溶け込み、生活の質の向上に貢献している」と語った。
• 更にヘイズ市長は「シカゴ新報はこの地域唯一の日英両語の新聞であり、日米交流深化の架け橋となるという活動理念をよく果たしている」と語った。

• 寺田哲也JCCC会頭は戦後すぐという難しい時期に新聞を発行し情報を提供した創始者の藤井寮一と、その後を引き継いで来た6人の代表とスタッフに敬意を表した。また、浦山現社長の仕事上の責任を越えた情熱を称えた。

• シカゴ新報のコンピューター関係を引き受けてくれているタカ・インフォメーション・テクノロジーズの浦山貴永氏が乾杯の音頭を取り、昼食会が始まった。昼食中には過去10年に亘る様々なイベントの記事が大型スクリーンに映し出された。

• 昼食後は尾崎元・共同通信ニューヨーク支局長による講演「戦後70年と日米関係」が行われた。共同通信は米国に3支局を置き、20人のジャーナリストが米国の政策、経済、社会の出来事、スポーツ、国連関係を取材し、契約新聞社に配信している。

• そして、シカゴ新報は1945年11月15日から現在までの記事を編纂し、シカゴ・中西部に於ける日米関係の発展の歴史についてプレゼンテーションを行った。終了後浦山社長は「歴史は回顧のためだけにあるのではなく、将来の活動のために知恵を貸してくれる資料としての価値が大きい。今後も皆さんの活動を報道することによって記録に残し、それが50年後、100年後の日米交流の糧になることを願う」と語った。


• 「戦後70年と日米関係」
• 尾崎元NY支局長講演

• かつて米国には1ダースを超える邦人紙があったが、現存するのはシカゴ新報を含めて4紙のみ。これはコミュニティの変化とデジタル化による媒体の急変によるところが大きい。
• しかし、「今日において、新聞の重要性とは何か」と尾崎氏は問いかけた。
• 欲する情報が容易に入手できるようになった昨今、新聞は何を提供しているのか。栄養が偏れば身体の健康が損なわれるように、心の栄養である情報が個人の関心事のみに偏れば何か起きるかは想像できる。おそらく世間から孤立し大局観のバランスを失うことになるだろうと尾崎氏は指摘する。シカゴ新報は政策から経済、社会生活まで、シカゴや中西部の日本コミュニティに必要な多様な情報を提供している。
• 尾崎氏は講演前半の締めくくりとして「シカゴ新報を支援してもらいたい。そうすることが皆さんのコミュニティを支援することになる」と述べた。

• 尾崎氏は講演後半で、2人のアメリカ人の日本に対する見方について語った。一人はMITのヒストリアン、ジョン・ダワー氏。同氏の著書「敗北を抱きしめて」は日本のベストセラーになっている。もう一人はコロンビア大学のジェラルド・カーティス氏。同氏が日本語で書いたエッセイ「政治と秋刀魚」や著書「代議士の誕生」がある。

• ダワー氏
• 同氏は歴史がその国の愛国心によって容易に書き換えられることを懸念する。各国は、自国こそが戦争の犠牲者だと容易に思い込む。
• これについて尾崎氏は次のように説明する。例えば日本は良く原爆の犠牲者だと言い(これは本当ではあるが)、日本は平和な国であるように、また、廃絶を促進するように育てられている。しかし、かつての軍国主義によってアジアの国々に迷惑をかけたことを忘れてはならない。これが日本は平和の国でなければならないというもう一つの理由になっている。
• ダワー氏は歴史を書き換える日本の愛国者を非難するばかりでなく、米国の軍国主義もより猛烈に批判している。これはベトナム戦争への介入不審から来ているという。
• ダワー氏は日本が憲法第九条により平和主義の先頭に立つことを望んでいたが、日本の平和主義が急速に縮小していることを残念に思っている。

• カーティス氏
• カーティス氏の懸念は日本の政治体制のバランス。安全保障関連法が9月17日に可決されようとした時、野党議員が阻止しようとして参院平和安全法制特別委員会の鴻池祥肇委員長をめがけて押し寄せた。
• この光景を写真で見たカーティス氏は、日本の政治体制は1950年代、1960年代から一向に変わらないと落胆したという。
• 日本の政治体制は「tyranny of majority」と呼ばれる多数者の専制であり、健全な民主主義からかけ離れている。これは反対派の欠如によるものだとカーティス氏は指摘している。

• 戦後70年、若者の間で何が起きているか

• 尾崎氏がダワー氏と話し合っている間に、若者の歴史認識に至った。日本では、かつて日本が米国と戦争をしたことを知らない若者がいる。ダワー氏も米国では似たような状況だと話したという。米国高校で教師が第二次世界大戦の説明中に米国と日本が戦ったと話したところ、生徒からどちらが勝ったのかという質問があったという。尾崎氏はこれがすべてとは言わないが、戦後70年の長さを表しているのではないかと語った。

• 日米同盟

• 日本の安全保障関連法が成立し、軍事同盟も含み日米同盟は更に強固なものになった。これで太平洋や北東アジアの安定と安全が促進できるのか。尾崎氏は平和、安全、繁栄のためには一握りほどの問題に適切に取り組むべきだと指摘する。
• 日本では沖縄の普天間基地移設問題がある。これは日本政府と沖縄政府間の問題が大きく、日本政府は誠意を持って対処すべきであり、米軍基地への悪影響を最小限に抑えるべきだという。
• この他に、隣国嫌い、米国嫌いの日本人が増加しつつある。これはアイソレーショニズムを引き起こすと尾崎氏は懸念する。日本が孤立状態で生き延びることができないことは歴史を見れば明白で、日本人は視野を広げる必要があると尾崎氏は語る。そして、日系コミュニティが日米相互理解促進に貢献する事ができ、共同通信はメディアの一員として、その貢献の一助となることができると結んだ。


• 「シカゴ新報の記事に見る日米関係の歴史」
• 70周年記念プレゼンテーション(抜粋)

• 1945年11月キリスト教各派連盟と仏教会各派が日本難民救済運動を始め、年末に、衣類5500ポンド、靴550足、現金700ドルを日本に送った。
• その後も多くの日本難民救済のチャリティ・イベントが行われ、寄付金13,000ドルと、衣類8.267ポンドなどが3回の船便で日本へ送られた。これらの寄付は15万人の日本人に配給された。

• 1946年、シカゴ市南のレーク・パーク街で初の相撲大会が開催された。シカゴのメジャー紙でも報道され日本文化のアピールとなった。

• 第二次世界大戦後、シカゴに芽生える日米経済関係

• 8月にネイビー・ピアで世界貿易博覧会が開催され、日本政府は戦後初めてシカゴに貿易代表団を送った。

• 12月24日にはマッカラン・ウォルター移民帰化法が発効され、日本人に移民の門を開いた。
• 1953年1月、第一銀行がシカゴ駐在員事務所を開設し、中西部における日本企業の戦後初進出となった。

• 1954年2月3日、日本航空の一番機がサンフランシスコへ飛び、週に2回の定期便運行を開始した。これでシカゴと日本が一気に近づいた。
• 11月、日本航空シカゴ出張所を開設した。 
• 1955年4月、第一物産(三井物産)がシカゴ支店開設した。シカゴで初めての商社進出となった。

• 1961年1月、シカゴ日本商工会議所の前身・日本クラブが創立され、三井物産の三田哲郎氏が初代会長に就任した。
• この年、東洋綿花がシカゴ支店を開設、日本観光協会もシカゴ事務所を開設開設した。

• 急進するシカゴの日米ビシネス
行き交う経済使節団

• 1965年5月、キッコーマン・インターナショナルがシカゴ支店を開設。
• 9月30日、移民法改正案が連邦両院を通過成立。これにより日本から年間2000人から 4000人の移民が認められることになった。以前は年間185人だった。
• この年、60人のイリノイ州経済使節団が訪日した。

• 1966年1月22日、シカゴ日本商工会議所が創立された。

• 1968年2月1日、米国安川電機シカゴ事務所開設。 
• 1968年4月1日、三井船舶大阪商船は、駐在員事務所を支店に昇格。貨物輸送の他、客船業務も取り扱うこととなった。同月、日本からの食肉業者160人がシカゴを訪問した。
• この頃、日本から大型客船が、太平洋・パナマ運河・大西洋・セントローレンス河・ミシガン湖を経て、シカゴのネービー・ピアに入港していた。

• 1970年、コマツ・アメリカ・コーポレーションがシカゴにオフィスを開設。
• 1971年5月に住友銀行がシカゴ駐在員事務所を開設。
• 1972年、第一勧業銀行がシカゴ現地法人ファースト・パシフィック・バンク・オブ・シカゴを開設した。
• 7月3日、三和銀行がIBMプラザにシカゴ駐在事務所を開設。
• 9月1日、三菱銀行が駐在員事務所を開設。

• 1985年イリノイ州ジェームス・トンプソン州知事を団長とするビジネスマンの『アジア・トレード・ミッション』166人が訪日した。
• ハロルド・ワシントン・シカゴ市長、バーナード・ハンセン、デイビッド・オア両市議ら『シカゴ市経済ミッション』の一行28人が大阪を訪れ、松下電器工場などを見学した。
• イリノイ州マイケル・T・ウルファー商務長官を団長とする同州の市長、実業家の一行約100人が、韓国から大阪に入り、名古屋、東京で日本側各界と協議した。

• 広がる日米文化交流

• 1960年、日米交流も活発化し、日米修好通商条約締結100年祭が日米で盛大に行われた。
• シカゴでは、シカゴ市植物園にサクラの苗木20本を寄贈した。

• 1968年
• 4月11日、明治百年と戦時中の日系人立ち退き25周年を記念し、また、日米親善を願ってシカゴ市にサクラ300本を寄贈。デイリー・シカゴ市長を迎え、リンカーン・パークで記念植樹が行われた。日本から『桜の女王』佐藤幸子さんが特別参加。日系人500人もつめかけた。

• 8月17日、水の祭典、レーク・フロント祭が1週間に亘って開催。この年から日本の財界がシカゴ市に寄贈した屋形船『東京丸』12トンが参加、日本情緒をミシガン湖上に披露した。 

• 7月1日、住友銀行シカゴ駐在事務所が支店に昇格。
• 7月8日、三和銀行シカゴ駐在員事務所も支店に昇格。
• 9月2日、富士銀行がシカゴ駐在員事務所を開設。
• これで、シカゴの日系銀行は、シカゴ東銀、ファースト・パシフィック銀行、住友、三和、東京、三菱、富士の7行となった。翌年には三井銀行が事務所を開設、78年には東海銀行が事務所を開設した。

• 1981年6月、ボタニック・ガーデンで『ジャパンデー』が初めて開催された。
• 6月、シカゴ市パークディストリクト、シカゴ市都市計画委員会、イリノイ州自然保護委員会、連邦政府が各々20万ドルを出し合い、ジャクソン公園内の日本庭園(後の大阪ガーデン)を復旧した。

• 根強い反日感情が噴出するシカゴ

• 1984年2月22日、赤字に悩むシカゴ市財政委員会が日本の三菱銀行から短期融資をうける議案を討議したが、反日派の2市議が、パールハーバーを含む第二次世界大戦を持ち出して猛反対した。空前の日米蜜月時代に、後味の悪さを残した。 
• ジョージ・ハゴピアン市会議員は「日本の銀行から金を借りるとは、パールハーバーに沈められた戦艦『アリゾナ』とともに戦死した英雄2000人の両親に一体何と言えばいいのか」と怒りを露わにした。
• 日本からの融資案は結局13対2で成立したが、シカゴの日本人・日系人は根強い反日感情の噴出を目の当たりにすることとなった。

• 現地に溶け込む日本企業と社会貢献活動

• 1983年、シカゴ交響楽団は、トヨタ自動車関係2社から合計50万ドルの寄付を受けたと発表した。
• 1989年、日本政府が100万ドルをシカゴ美術館に寄付。これはアジア・ギャラリーを含めた改修工事のためで、シカゴ美術館は400万ドルを必要としていた。三菱銀行も100万ドルを寄付した。
• 三井物産がエバンストン・タウンシップ高校の日本研究プログラムに7万ドルを寄付した。

• 1990年、モトローラがシカゴシンフォニー・オーケストラの日本ツアーのために75万ドルを寄付した。経費不足を知ったモトローラ社が協力を申し出て75万ドルを寄付、日本ツアーを実現させた。

• 教育・経済に貢献する
日米文化交流

• 在シカゴ総領事館が初めての『日本語スピーチコンテスト』をホリデーイン・シカゴ・センターで開催した。

• JETプログラムが開始された。全米500人の定員に3000人が応募、在シカゴ総領事館管轄の6州からは77人が選ばれ、8月1日、オヘア空港を飛び立った。日本政府は初年度の結果を見てさらに規模を広げる予定だと発表した。

• シカゴ新報は、1945年11月15日の創刊号から69年12月号までの全号をスプリングフィールドのイリノイ州立歴史図書館に寄付した。同図書館には1000にのぼる新聞の記録が保存されているが、シカゴ新報は初の日本語新聞としてコレクション入りした。

• 日本酒キャンペーンが米国各地で行われるようになった。シカゴでは弁慶レストランで試飲会が行われ、200人が集まった。

• 継続される日米交流

• 2005年、佐藤昌三師が考案した英語歌舞伎「レイディ・マクベス」が3月11日から5月1日まで、シェイクスピア劇場で上演された。教え子が育ち、主流劇場での歌舞伎上演が可能となった。

• 村上春樹の「地震のあとで」を劇にしたものがステップンウルフ劇場で11月末から上演が始まった。音楽は琴とチェロのみで、琴はジェフ・ウィックマンが演奏した。

• 2006年、戦後65年を経て色あせることない真珠湾攻撃の日。パールハーバーを経験した退役軍人は日本をどう感じているのか、シカゴ新報は記念日にインタビューした。「その時は日本にひどい感情を持った。世代が過ぎたが、我々はその場がどのような状態だったか忘れない。今は、過ぎたことだ。日本に行っている友人もいる。今の我々は65年前の時とは違っている」と話した。

• 2014年は、120年に亘って日本とシカゴの約束を守り続けているシカゴ市のストーリーから始まった。コロンビア博覧会後にシカゴ・パークディストリクトに友好の印として寄付された鳳凰殿や日本庭園が、ロバート・カー氏によってフェニックス・ガーデンとして再開発されている。すでに120本の桜が植樹され、歴史を一望できるパビリオンも建設される。

※ 以上は小冊子「シカゴ新報の報道を通して見る日米関係70年の足跡」からの抜粋です。小冊子ご希望の方は、送料5ドルを添えてシカゴ新報までお申し込み下さい。
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