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未だに影を落とす日本帝国の影響
「慰安婦」か「性的奴隷」か、
反目する国民感情とは

• 日本帝国がかつての殖民地の人々にどの様な影響を与えたか、また現在もどの様な影響を残しているのかを研究するカンファランス「Living and Leaving the Japanese Empire」がシカゴ大学で11月20日から21日の2日間に亘って行われた。
• 20日には早稲田大学の浅野豊美教授がシカゴ大学を訪れ、日本帝国の殖民地化撤廃によって東アジアの賠償要求と和解問題がどの様に発生してきたのか、戦後の日米関係の観点から講演した。

国民感情はどこから来るのか

• まず前提となるのは、日本帝国の脱植民地化には独特なプロセスがあり、日本帝国に関わる歴史問題はナチスドイツの場合と非常に異なっていること。
• 異なる歴史認識と、異なる法的概念による2者の主張に対して和解の道を探るためには、特有な日本帝国の植民地化撤廃を理解する必要がある。
• 冷静になるためには、歴史的根拠に基づき、第一次世界大戦後の合意や冷戦中の経済協力と、第二次世界大戦後の補償問題の発生経緯を比較しながら見直す必要があると浅野教授は語る。

• 日本帝国の瓦解による植民地化撤廃で殖民地の人々の生活は一変した。このプロセスが強烈な国民感情が生まれる元となる。戦後の補償問題は、日本人の本国送還後に韓国に残された日本人の私有財産や同国人の戦死者にまつわる日本人と韓国人の執着を描き出すことになった。

• 日本と韓国の戦後の関係には、米国が調停者として重要な役割を果たしている。東アジアの脱植民地化の特質は、下記の3つの局面に見られる。

• 第一は韓国人も台湾人も日本帝国の国民として扱われたこと。この歴史的事実が今日の正当性と史実に関する問題に未だに絡んでいる。
• 日本の指導者がアジアの人々に謝意を表そうとすると、日本人の国民感情を刺激する懸念から、神経質にならざるを得ない。1991年12月に韓国側から慰安婦問題が持ち出された時、赤十字に看護婦として参加していた日本人の高齢女性達が、なぜ日本国民であった韓国の慰安婦だけが法的に補償を受けるべきなのかと主張して来た。最終的には数年前、日本政府から赤十字の看護婦達に同情金が支払われたが、被爆者や沖縄市民を含む少数を除いては、現在でも戦死した多くの日本国民には補償は支払われていない。

• 脱植民地化のプロセスで置き去りにされた日本人の私有財産に対する解釈の違い。日本人にとっては先代からの遺産だが、韓国人にとっては殖民地の利己利用による不当な利益の蓄積に他ならない。
• 米国主導による日本帝国の植民地化撤廃で、すべての日本人は殖民地から日本本土へ強制帰還させられた。米国の帰還計画の元では、日本の資産は私有財産も含めてすべて押収し、米国の経済支援の一部として、東アジアの国々に与えられた。
• しかし、これらの資産は事実上うまく利用されなかった。それは冷戦も一つの要因だが、日本の技術が伝達されず、押収した工場設備を運営することができなかった事が大きい。
• 結果として、資産を押収された日本の被害者意識が強まり、一方では、1950年代の経済不況の中で韓国人の日本に対する補償要求が高まった。つまり、日本帝国からの実質的な分離が上手く行かなかったことと、押収された私有財産についての日本人と韓国人の解釈の違いが、植民地化終了時の特有な局面の一つとなっている。

• 3つ目は、正常化のプロセスにある。1965年の日本と韓国の正常化、1952年の日本と台湾の正常化、1972年の日本と中国との正常化は、二つの政府の和解を象徴するが、二つの国の和解ではなかった。この政府主導の正常化は米国による圧力に密接に関係している。
• 日本と韓国の正常化中、韓国に残した日本人の私有財産は、日本帝国に動員された韓国兵士や戦死者への補償で相殺された。
• 合意に達した後、韓国と日本政府は合意条項を各々自国の国民感情に沿う形で解釈した。これには経済協力や戦前に起因する賠償要求に関する合意に一貫性がなかったが、日本も韓国も、自国の解釈を相手国に受け入れるように要求することはなかった。

• 1990年代に冷戦が終わり、韓国が民主化され、新しく地域統合が行われると、一旦落ち着いていた私有財産や戦死者に纏わり付く国民感情がぶり返された。つまり正常化は、全く解釈が異なる戦死者や失われた私有財産を脇に置くことで可能となっていた。さらに、これら2つの違うタイプのロスは、正常化のプロセス中で政策的に相殺されていた。

米国の日本帝国瓦解政策

• 米国の日本帝国に対する占拠政策は、日本を1895年の日清戦争の初めに戻し、台湾、韓国、南樺太、満州を含む全殖民地を剥奪することに焦点が当てられた。
• この政策は、防衛措置にも結びついていた。要するに、日本のアジア再侵略を防ぐためには、米軍によって重石を置かなければならなかった。アジアの海事に対する布石は沖縄だった。中国大陸への足がかりは韓国だった。米軍の沖縄や韓国への基地設置の発端は、日本の再侵略からアジアを守るためのものだった。
• この政策はアジア諸国からの全日本人帰還とも関係していた。そして、残された日本の資産を補償の一部として利用することだった。

• 戦後まもなく、1946年の5月から6月にかけて、トルーマン大統領はエドウィン・ポーレイを東京、ソウル、韓国北部、満州に送った。これは補償調査ミッションの長として送ったものだった。ポーレイの任務は、海外に残された日本の財産を押収し、日本本土にある余剰設備を転送し、補償計画を実施することにあった。米国はこの補償計画で、中国国民党(Kuomintang of China)政権の早期発展をやろうとし、国連委託統治後の韓国の近代化をやろうとし、以前の日本の設備を地域インフラとして利用して東アジアの経済統合をやろうとしていた。ポーレイはドイツの補償にも深く関わっており、この計画はヨーロッパとよく似ている。

• 「現金ではなく、資本という形の補償」というアイディアは、ジョン・メイナード・ケインズが最初に提唱していた。ポーレイのアドバイザーのオウェン・ラティモアもこのアイディアを支持していた。ラティモアは満州にある日本の重工業設備を利用して早急な経済の近代化を図り、強い中国を建設するヴィジョンを持っていた。また、米国が金属、化学物質、機械設備を日本から韓国北部と満州に移せば、日本帝国は消滅し、東アジアの地域経済は再編成されると考えていた。

• しかし、この種の経済統合に関する計画は不可能に陥った。
• ポーレイの調査で、韓国北部や満州の主な工業設備は、中国の市民戦争勃発と共にソビエト軍が素早く持ち去ったことが分かった。
• 第二に、1946年から1947年の初期にかけて東アジアに共産主義が加速し、経済状況を悪化させているようだった。
• 第三に、日本の設備を使って運営するには、長期に亘る技術トレーニングと教育が必須であることが分かった。巨額にのぼる機械の移管費にもかかわらず、多くは効率的に利用されなかった。特にフィリピンでは、移管された機械が港に置き去りにされたままだった。
• 東アジアの状況は、ヨーロッパとは非常に異なり、教育水準と技術力が非常に低く、単なる巨額投資が経済復興をもたらさないことが分かった。

• 米国の最後の選択は、日本をアジアの工場にすることだった。「アジアの工場」という言葉は1947年5月に米国務次官ディーン・アチソンによって使われた言葉だった。
• しかし、韓国からすれば、米国に裏切られたことに他ならない事だった。



早稲田大学 浅野豊美教授、国際政治学者・歴史学者
 

• しかし、日本をアジアの工場として復興させることは、決して無条件ではなかった。サンフランシスコ平和条約の14条は日本の基本的な補償の枠組みを謡っている。それには、他国が戦時中のダメージについて補償を要求した場合、日本はそれに対処する義務があるとしている。米国は事実上、他国が日本との交渉を求めるかどうか管理している。
• また、米国は日本に対して食料、薬品、建設、その他の救援に対する間接的な占拠コストについて巨額を要求していた。この2つの金融債務により、米国は日本の経済復興と以前の殖民地の要求と経済協力についての仲介者となる事になった。初期の占拠された日本のスローガンは「アジアの工場」で、補償は商業製品、資本と技術の供与、ということを意味していた。浅野氏は自らの考えとして、この条約の補償という枠組みは、日本の経済復興が隣国への経済援助になるという意味だったという。

日韓基本条約

• しかしながら、このような失われた私有財産と失われた命に結びつく国民感情が消えることはなかった。日本と韓国の交渉が始まった1952年2月、両者は韓国に残した日本人の私有財産について強く相反する考えがあった。
• 朝鮮半島から70万人の日本人が引き上げた後、引き揚げ者は残してきた私有財産にこだわった。私有財産が日本政府の補償の一部に使われたとしても、引き揚げ者は日本政府から私有財産の補償を受けるべきだと主張した。なぜならば、私有財産は敗戦時であっても1907年の国際法ハーグ・コンヴェンションで守られているからだった。

• 韓国には強制的に日本人として動員した日本政府に対する大きな怒りがあったが、戦後は気にしなくなった。年金や厚生年金、給料は元兵士に支払われることになったが、国民にはなかった。動員された韓国人は特別補償を要求し、かれらは外国人として差別という心理的なダメージうけた。だからこそ、日本の国民とは異なると主張した。

• 日本と韓国の衝突は、最終的には米国の仲介で合意した。間接占拠費を割り引きすることで米国は日本に韓国への経済協力を強調した。一方韓国には補償を下げるように圧力をかけた。

• 1961年に最終的に米国は日本への間接占拠費を6億4,000万ドルから4億9,000万ドルに割り引いた。これは、東南アジア諸国と韓国に対し日本に重い戦前の負債と補償を追わせるものだった。この決定はケネディ大統領と池田首相との間で1961年6月に結ばれた。これは朴正煕の1961年5月のクーデターの直後だった。

歴史研究による共通理解の必要性

• 結論として、日本の私有財産と韓国人の戦死は政策的に相殺された。しかし、双方の国民感情は特質的な日本帝国の植民地化撤廃によって各々の社会の中でくすぶり続けている。
• 浅野氏は、賠償政策の目的は遅れはしたが最終的に現実化したという。1960年後半から1980年代にかけて経済協力を通して技術の伝達が徐々に行われた。しかし、戦死者と私有財産における国民感情の摩擦は1980年代までは続いた。

• 慰安婦問題は冷戦後の1990年代に持ち出され、女性の威厳と人権問題として21世紀至っても国民感情で衝突している。韓国の国民感情は不平等な扱いを受けた市民の国民的記憶から来ている。日本と韓国の活動家らが同じ女性を「慰安婦」と「性的奴隷」と言うように、引き揚げ者の私有財産も「遺産」と「不当利益」というように受け取り方が違う。

• 人の命、戦時中の招集は日本人に取っては当然の義務だが、韓国人にとっては不当な拉致となる。なぜならば歴史的な合併の意味が完全に異なるからだ。反目する歴史イメージを説明し理解するには合併についての学識的な研究が必須となる。
• 国民感情は、日本、米国、アジア諸国の三角構造の賠償の歴史に結びつけて議論されるべきで、韓国は正常化の中で米国の仲介者としての重要性を見る典型的なケースである。

• 浅野氏は、国民感情は科学的な研究のテーマであるべきで、歴史研究とともに行われるべきもの。国民感情の制御には、複数の国が共有する議論体制を必要とする。和解のためには、国際的に共有される文化的政策が議論体制に伴われるべきで、前例のないより高尚で全員に共通する判断と共に行われるべきだと語った。