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由紀さおりと安田祥子を迎え、
JCCC新年会


• 由紀さおりさんと安田祥子さんを特別ゲストに迎え、シカゴ日本商工会議所(JCCC)の新年会が1月10日、シャンバーグのルネッサンス・コンヴェンションセンター・ホテルで開催され、約900人が参集した。新年会は藤平和士氏とメアリー・ミッチェル氏の司会で行われ、後藤美郎氏のリードによる日米国歌斉唱で幕が上がった。

• JCCCは今年創立50周年の節目を迎える。挨拶に立った堀賀郎会頭(米国新日鐵住金)は、1966年に58会員で発足したJCCCは現在500近くの会員企業・団体を持つにまで発展し全米諸都市の日本商工会議所の中でも有数の規模だと述べ、シカゴ双葉会日本語学校補習校、全日校の設立、JCCC基金の設立など、その歴史に触れた。
• JCCCの活動の柱は、会員の支援と地域社会貢献。JCCC基金では1991年の設立以来、地域の人材育成、日本語教育支援などを中心に500万ドルを超える寄付をしている。
• 今年は、第5回目の開催となる絆プログラムへの参画を始め、「受け継ごう信頼の50年、育もう次の50年」(キッコーマンフーズ 中村覚氏作)をスローガンに、50周年記念事業、記念式典、シカゴ双葉会日本語学校とのイベント共催など多くの催しが企画されている。
• 堀会頭は、地域社会と地域の人々に感謝し、日本文化の美徳である誠実さと正直さを忘れず、「50年に亘って先輩方が築いて来た日本への信頼をより一層高めていくことが、次の50年を担う私達の勉めになると思う」と述べ、会員の協力を呼び掛けた。

• 岩藤俊幸在シカゴ総領事は「昨年は日米関係にとってダイナミックで良い年だった」と振り返り、今年は中国経済の世界的影響、TPPの早期署名発効など大きな課題があり、我々に直接関係しうる大きな案件が待ち受けている一年になるだろうと話し、「容易でない課題が多く生じるかも知れないが、シカゴの冬で培った忍耐力と馬力で皆さんと協力して乗り切っていけるよう、また、昨年にも増してダイナミックで素晴らしい一年となるよう、総領事館としても努めて行きたい」と語った。

• 補習校高等部3年の八木透君が新年の抱負を堂々と発表した。八木君は父の転勤で3年前に現地校と補習校に通うことになった。初めは不安だったがバスケットボールを通じて多くの友達ができ、充実した日々を過ごしている。現地校の情報工学の授業でコンピューター・プログラミングを経験し、進路をIT分野に決めた。
• 八木君が通うシャンバーグ高校では全生徒にiPadが支給されており、教科書やプリントはそれを通じて配信される。便利な反面、ゲームやチャットに手を出す負の面もある。しかし、新しいものを積極的に試し失敗すれば次に生かすというアメリカ文化が、アメリカを世界のトップに押し上げている理由だと思うと八木君は語った。
• 補習校では不慮の事故でクラスメイトを失った。仲間の死に直面する初めての経験だった。八木君は「今後、自分の将来が今描いている未来予想図通りになるとは限らない。しかし、予期せぬ事があってもこの3年間で経験したことを生かし、自分を見失わずに壁を乗り越えていきたい」と抱負を語った。

• 続いて、本年度の堀賀郎会頭と、中城英喜専務理事(三菱東京UFJ銀行)より、昨年度の寺田哲也会頭(米国日本通運)と讃井慎一専務理事(みずほ銀行)の労をねぎらい、記念品の贈呈が行われた。

• 今年60周年を迎えるシャンバーグのアル・ラーソン市長はJCCCの新年会会場となっているコンヴェンションセンターに触れ、「8年前に提案した時は多くが不可能だと言ったが、実現した。そのお陰でシャンバーグの開発に拍車がかかり、筋向かいにはズーリック・アメリカン・インシュアランス社が本社を置き、今年はサンスター・アメリカズ社も稼働を始める。シャンバーグにはイリノイ州で最多数の日本企業が来ており、誇りに思っている」と述べ、乾杯の音頭を取った。

• 昼食後には由紀さおり・安田祥子姉妹によるショーが始まった。一曲目は「あしたへ贈る歌」、そして「ふるさと」。透き通る歌声は、傷みや濁りのある大人達の胸を通り抜けるように清らかだった。
• 2人は日本の歌を通して美しい日本語を伝えようと1986年に活動を始め、この4月で30周年を迎える。由紀さんは「子ども達のための歌や日本の歌がたくさあるが、段々私達の耳に届かなくなってきている。次の世代に一曲でもいいから日本の先人達が残した美しい響きの歌を歌い継いでもらいたい」と会場に呼び掛けた。
• そして、暮らしの句読点「催事」を表す歌で一年を綴った。また、日本語は旋律に乗って美しいという2人は「どこかで春が」「夏の想い出」「小さい秋見つけた」「雪」を歌い、日本の四季を歌い上げた。

• 日本の歌は小動物に対する優しい目差しや親子の絆、季節などを気付かせてくれるものがたくさんある。しかし、古典落語で背景の説明が必要になるように、時代が変われば歌詞の受け取り方も変わってくる。「シャボン玉飛んだ、屋根まで飛んだ」と歌えば、シャボン玉と一緒に屋根も飛んだと思う子ども達が出て来る。昔、屋根は高い所を象徴していたが、高層ビルに住む子ども達の感覚は違っている。「こんなところに日本の歌を伝える難しさがある」と由紀さんは語る。2人は既に約400曲の日本の歌をCDに入れているという。

• 姉の安田さんはクラシック界で成功し、由紀さんは歌謡界で成功した。「いつか2人で歌って欲しい」という母の願いに応えようと2人で日本の歌を歌い始めた。コンサートを開くだけでなく、小中学校もまわって生徒と共に歌いながら日本の歌を伝えている。新年会前日には補習校を訪れ、10曲以上をみんなで歌った。
• 同新年会では会場からのリクエストにも応え、デビュー曲の夜明けのスキャットやトルコ行進曲なども歌ってくれた。最後に「花を歌って私達のステージを閉めたい」と「花~すべての人の心に花を~」を歌ってショーを終えた。その後、シカゴ双葉会全日校の生徒24人と共に「ふるさと」を歌った。

• 新年会は豪華賞品が当たる福引き大会で盛り上がり、新年会実行委員長の讃井氏は「44人の実行委員が何度も打ち合わせ、今日も朝6時から準備をしてくれた」と労をねぎらった。壇上には44人が勢揃いし、「花は咲く」の大合唱で新年会の幕を閉じた。


美しい日本の歌を聴かせてくれた由紀さおりさん(左)と安田祥子さん


双葉会全日校の生徒とふるさとを歌う由紀さおりさんと安田祥子さん
由紀さおり・安田祥子インタビュー

• Q:どんな切っ掛けで歌の世界に?お母さんも歌っていたのですか?

• 祥子:母は歌は好きではありましたが、日本舞踊や三味線です。

• さおり:姉が幼稚園の時に先生から「将来は歌をやらせた方がいいんじゃないですか」と言われたんです。(歌の始まりは)姉がひばり児童合唱団に入ったところからなんですけど。私も後から入りました。
• 私達の音色は、基本的に全く違うんですよ。でも、合唱団の同じ先生に表情術、ブレスの仕方など習ったので、こういうジャンルのものに関しては全く異質な感じがなくて、2人が融合できたのに驚きました。

• 祥子:私達の音色は違うので、だからやりたい音楽も違うんです。私はクラシックに行って、妹がポップス歌謡みたいなところに行って。勉強していた時期にはやはり自分の音楽が一番だと思っていたので、音楽上では互いに相容れないところがありました。
• 2人のそれぞれの道が決まって、それなりに活躍して、それで2人で「やらない?」という事になりました。互いの音楽を尊敬し合えるし、そういうタイミングを母が上手にやってくれたのかなと思います。

• Q:姉妹の関係を30年間、どの様に続けて来られたのですか?

• さおり:私の事務所は、夜明けのスキャットでデビューした時に母が作ってくれました。母亡き後は私が担わせてもらっているんです、姉の力を借りて。
• 最初からこんなに忙しく仕事があった訳ではなくて、最初の1、2年はレコードを売るためにキャンペーンでコンサートをやるような事が主だったんです。7年目の時にニューヨークの日系の団体の人達の依頼でチャリティ・コンサートをやりました。私達の歌を聴いた人達が絶対にカーネギーホールでやった方がいいと言って下さって、10年まで2人でやれたらカーネギーホールでやろうと頑張りました。

• 11年目にウィーン少年合唱団とのアルバム作りが実現して、15年目の時にワールドツアー、アメリカ、ヨーロッパ、最後はシドニー・オペラハウスで歌うというコンサートをやりました。そして20年、25年を目指して、気が付いたらこの4月から30年目だなというところです。
• 仕事を続けていく上では、姉が母が作った事務所に所属してくれたことが凄く大きかったと思いますね。姉の暮らしも見えているところで一緒に仕事をして来ましたから、そういった事が続けられる一番の物理的条件ですね。

• Q:お二人とも日本語や音楽の乱れを危惧されていますね。

• さおり:今は日本語が壊れている時代なので。若い人達が自分の思いで歌を作ることは嫌じゃないけれども、やはりセオリーを知って壊すのと知らないで壊すのではちょっと壊し具合が違う。
• 時代の中で音楽は作られていますから、そこに行くまでの日本の音楽のベイシック、例えば文部省唱歌や、滝廉太郎、山田耕筰、この人達がベイシックを作り、古賀政男先生がいて、服部良一先生がいて、SMAPさんや嵐やみんなに繋がっている訳なので、原点はこういうものだと分かった上で今を知ってもらうと、もっと私達がやって来たことの意味があるかなと思っています。

• Q:日本語は旋律に乗って美しいと言われていました。歌いながら日本語を覚えると、美しい日本語を覚えるのでは?

• さおり:そう、そうなんです。
• 本来日本語が持っている優しさや語感は、小さい時にインプットするのがいいと思う。それを補習校で実践されているのを実感して、とても嬉しかったですね。5、6曲のつもりでしたが、みんなで10曲以上歌ったと思います。
• 子どもさん達が将来帰国して仕事に就くことがあれば、凄く手助けになることを今ご家族と補習校の皆さんがやって下さっていると思います。とても力強く思いました。

• ロボットが今の仕事の40%を代行すると言われる時代に、相手の気持ちを推し量る、察知する、気配を感じる、こういう目に見えない事がとても大切ではありませんか。
• 星の王子様の映画のCMで「大切なものは目に見えない」というキャッチフレーズが流れています。本当はその後に「だから、心で探さなくちゃね」という文言を入れて欲しい。大切なものは目に見えないで終わってしまって欲しくない。
• 先人達が残してくれた歌には目には見えないものが全部入っています。

• Q:ピンク・マルティーニと共に1969年のヒット曲のアルバムを出されましたね。その経緯をお願いします。

• さゆり:ひょんな出来事があって。そのグループが私の歌を歌ってユーチューブ載せていて、それを私のスタッフが見つけて、そこから交流が始まったんです。

• ちょうど私の40周年の時に、もう一回歌謡曲にチャレンジしておかないと心残りになるかなと思っていました。そういう時にユーチューブに動画が見つかったんです。再デビューするような気持ちでやらないと誰も振り向いてくれないと思って、秋元康さんにプロデュースをお願いに行きました。
• 秋元さんは「若い人には新鮮だし、そういうトライをした方がいいよね」と、「だけどただ歌うだけでは客は来ないよ」って言われて、みんなグサッと。
• その直後にスタッフとミーティングを持った時、一人がピンク・マルティーニと一緒にアルバムを作るのはどうかなって言ったところから始まりました。

• ピンク・マルティーニはポートランド出身のグループです。リーダーのトーマス・ローダーデールはオックスフォード出身の政治家を目指していた人で、大学の寮にいた時に、政治集会に音楽がないとつまらないよねと言うところから、集会の後にみんなで音楽をややることになったんです。ヴォーカルのチャイナ・フォーブスさんと同級生で、それで音楽が病み付きになったそうです。彼はクラシック・ピアノを練習していて、彼がポートランドのレコード屋さんで私の夜明けのスキャットのLPを見つけて、ずっと聞いていたそうです。それで自分のチームのチャイナさんに歌わせてユーチューブに載せたそうです。紆余曲折ありましたけども一緒にCDを作りましょうという事になって。実際に動き出したのは、彼がOKと言ってから2年ぐらいかかっているんですけども。

• そのレコーディングをしている時にロンドンのBBCのオーケストラとコラボレーションするコンサートがあるから、歌いに来ないかとピンク・マルティーニから話があり、アメリカツアーをやらないかという話になりました。その時が私達のちょうど25周年でした。ロンドンで謡ったのが10月で、11月に姉と一緒にNYで25周年のコンサートをやり、12月はアメリカツアーでワシントン、ボストン、NYと、ポートランドで歌いました。
• その次の年にパリで歌って、その次の年にバーレンで。その前にロサンジェルスのハリウッドボールがありました。2日満杯で、1万7.000人ほど入りました。それはピンク・マルティーニとロサンジェルス交響楽団のコラボレーションでしたが、私も歌わせてもらいました。
• 自分にこんなチャンスが来るとは思ってもいませんでした。殆ど日本語で歌ったのですが、音楽はボーダーレスであることを実感するようなステージでした。最初にマシュ・ケ・ナダを歌ってスタンディングオペ-ションをもらい、パフも手拍子を打ってくれましたし、ワンフレーズを英語で歌うと拍手喝采になりました。
• そういう経験をさせてもらって日本の歌謡曲も世界に通用する歌であるという事に凄く意を強くして、一昨年は60年代後半、昨年は60年代前半の歌謡曲をカバーしたアルバムを出しました。若い人にとっては全く知らない歌ですが、新しいサウンドで歌わせてもらったので、聞いてもらえると思います。歌謡曲も綺麗なメロディアスな日本語なんですね。ボキャブラリーも豊かなので、語彙の少ない若い人達に聞いて欲しいと思います。

• ありがとうございました