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デイ・オブ・リメンブランス:
法を再び沈黙させないように

• 第二次大戦中12万人の日系人を強制収容するに至った大統領命令9066を忘れないための記念集会「Day of Remembrance」が2月21日、シカゴ歴史博物館で開かれた。
• 大統領命令9066は、1942年2月19日に当時のルーズベルト大統領によって署名され発効したもので、これにより120,000人の日系人が米国内10カ所の収容所に強制収容されることになった。
• シカゴ二世ポスト1183部隊によって国旗が立てられた後、司会をつとめるレベッカ・オザキ氏とアンナ・タカダ氏がデイ・オブ・リメンブランスの背景を説明した。
• 続いてライアン・ササキ氏が、当時の米陸軍西部防衛軍と戦時民間管理局の名のもとに1942年5月3日に出された「民間排除命令34号の規定により、全ての日系人は1942年5月9日、日曜日正午までに立ち退くこと」という強制退去の告示ポスターを読み上げた。
• シカゴ人権委員会の委員モナ・ノリエゴ氏がシカゴ市長のメッセージを読み上げた後、ジャニス・タナカ氏による2014年のドキュメンタリー映画「Right of Passage」の簡潔版が上映された。

• この日の特別ゲストとして、「不可能の実現:日系アメリカ人戦後補償への戦い」(Achieving the Impossible Dream: How Japanese Americans Obtained Redress)の著者でカリフォルニア州立大学副学長のミッチェル・マキ氏が出席し、1988年に実現を見た日系人に対する謝罪と補償を取り決めた「市民の自由法」について、特にその成立に際して貢献のあったさまざまな人々について詳しく語った。
• 1988年に成立した市民の自由法により大統領の公式謝罪が行われ、強制収容された日系人一人当たり2万ドルの補償金が支払われた。また、日系人が人種偏見の危険性を一般市民に伝える教育的な基金として1,500万ドルが充てられた。

• マキ氏は、市民の自由法の成立に関わった一人としてハワイ州選出の故・ダニエル・イノウエ上院議員を挙げた。10代の少年として日本帝国軍による真珠湾攻撃を目撃したイノウエ氏は、第442連隊戦闘団で戦い右腕を失う。1959年にハワイが正式に米国50番目の州になると、米下院議員に立候補し当選した。その2年後には米上院議員に選出され、ほぼ50年にわたって上院議員を務めた。イノウエ氏は、市民の自由法成立のための資金確保に尽力している。

• 10才の時家族と共にワイオミング州ハート・マウンテン収容所に送られたノーマン・ミネタ氏は、1974年に米下院議員に選出された。以後、下院における日系人戦後補償への主導的な役割を果たした。

• アフリカ系アメリカ人ロン・デラムス氏は、6才の時に日系人の友人が自宅からトラックに乗せられ連れ去られるのを見た。後にカリフォルニア州オークランドから米下院議員に選出されたデラムス氏は、友人が連れ去られる恐怖の場面は目に焼き付いて離れないと話している。1988年9月17日、米下院における市民の自由法の討議の際、デラムス氏は同法を支援する熱のこもった演説を行った。

• ジム・ライト氏は南太平洋での空軍の任務から戻り、コレマツ裁判についての新聞記事を読んだ。日系人たちが戦争中にどのような扱いを受けていたかを知り「これは間違っている。このようなことをする国のために自分は戦ったのではない」と思ったという。米下院議員に選出されたライト氏は、1987年から1989年まで下院議長を務め、市民の自由法の下院通過を率先して支援した。

• この他に、1976年にハワイから選出されたスパーク・マツナガ米上院議員がいる。マツナガ氏は442部隊の一員だった。もう一人ボブ・マツイ氏がいる。マツイ氏は1978年にサクラメントから米下院議員に選出された。これで日系米議員は上院議員2人と下院議員2人の4人となり「市民の自由法」の成立を目指して下院・上院議員の説得に当たった。

• 強制収容所は1945年から1947年の間にすべて閉鎖されたが、その際収容所の日系人たちはそれぞれ現金25ドルと鉄道の片道切符とを支給されて解放され、その後の生活の立て直しは各自に任された。当時は多くの日系人たちが、強制収容の体験に関して「恥」という感情を持っており、そのため子供たちや若い世代に戦時中の体験を語りたがらなかった。

• 1970年代、日系人の補償請求の動きに対する考え方は3つに分かれていた。1つは「記憶から消えるにまかせる」、2つ目は「謝罪は要求するが、金銭は要求しない」、3つ目は「公式の謝罪と金銭上の賠償を求める」というものだった。結局三番目の道が選ばれ、委員会が設置されて750人にのぼる証人が各地の聴聞会で証言した。その中には、歯科医師のキヨシ・ツノダ氏の、涙を交えた収容所生活の証言もあり、幾人もの証言がその後に続いた。証人はほとんどが日系一世と二世であり、三世の世代にとってはこれが戦時中の日系人の体験を知る初めての機会となった。

• 幾多の証言の後、1983年に委員会は強制収容は戦時ヒステリアと人種偏見の産物であり、政治的リーダーシップの失策であったと結論を出し、日系人に対する公式謝罪と一人あたり2万ドルの賠償金支払い、コミュニティ・トラスト基金の設立を議会に勧告した。

• 米議会の他にも、「全米日系人戦後補償評議会」(The National Council for Japanese American Redress)が組織され、戦時中日系人に対して行われた基本的人権侵害を法的に明らかにすべく訴訟が行われた。

• 市民の自由法は1987年9月17日に下院を、1988年4月20日に上院を通過したが、保守派のロナルド・レーガン大統領がこの法に署名するかは疑問視されていた。そこでレーガン氏の心情に訴えるため、イタリアで戦闘中に戦死した日系人軍曹カズオ・マスダ氏の話がとりあげられた。
• 「自分の家族がアメリカで生きていける唯一のチャンスは、米軍の一員として戦うことだ」と述べたマスダ氏は、その2週間後に戦死した。マスダ氏の遺体は、地元の墓地への埋葬を拒絶された。陸軍ではマスダ氏と家族のために死後の勲章授与を決め、その式典で後に大統領となるロナルド・レーガンという若い大尉が「アメリカは人種でなく信条の上に立つ地上で唯一の国であり、この国のために流された血の色は皆同じだ。あなた方の息子がこの国のためにしたことを、アメリカの家族はもう一つのアメリカの家族への感謝として、忘れない」と述べた。

• 日系人補償請求活動家らがレーガン大統領にこの話を伝え、大統領の心を掴んだ。
• レーガン大統領は1988年8月10日に「市民の自由法」に署名した。

• マキ氏は、戦後補償への足跡を振り返る過程で、過去の間違いに冷静に向き合う米国の強さを強調した。「日系人の強制収容とその後の正義への道のりは、日系人の努力の力強さだけでなく、アメリカの強さの物語でもある」とマキ氏は述べた。また、先頃死去した最高裁判所判事アントニン・スカリア氏の、コレマツ裁判の判決は間違いであったが、それと同じことがまた起こらないとはいえない、「戦時下では、法は沈黙してしまう」という言葉を引用し「この機会に、過去に起こった事を忘れないだけでなく、法を再び沈黙させないことを誓おう」と結んだ


Day of Remembranceの会場

ミッチェル・マキ氏