シカゴ建築バーチャルツアー: 建築の街シカゴと日本とのつながり
建築の街で知られるシカゴの歴史を通じて、シカゴと日本との関わりを学ぶ講演会「シカゴ建築バーチャルツアー」が12月10日、シカゴ日本商工会議所(JCCC)文化部の主催で開催された。
講師を務めたのはロバート・W・カー氏で、シカゴ市ジャクソンパークにある「The Garden of the Phoenix」の歴史研究家であり、鳳凰殿跡地と周辺の復活を進めるプロジェクト120のリーダーを務める。また、カー氏はブロマーチョコレート社の最高法務責任者兼経営企画担当副社長を務めている。
カー氏はシカゴ市の始まりから大火、復興、コロンビアン万博などシカゴの顕著な出来事を日本の歴史と絡めながら説明する一方、アメリカ独自の建築スタイルを生み出した建築家と日本との意外な繋がりについて語った。
カー氏は南山大学に留学し、その後シカゴのロースクールに入るまでの3年間、東京にある建設会社に勤務した。その間カー氏は日本のあちこちを見て回った。その中で最も感銘を受けたのが、明治村に保存されている前帝国ホテルのフロントやロビーなどだった。これはシカゴの建築家フランク・ロイド・ライトが設計したもので、日本の風合いが良く統合されている。カー氏はなぜアメリカ人の建築家が素晴らしいホテルを建築できたのか疑問に思った。これがシカゴの建築と日本との繋がりを研究する切っ掛けになったと語る。
シカゴの始まり
東海岸の13州が集まってアメリカ合衆国を建国したのが1776年。当時シカゴにはインディアンが住み、「shikaakwa」というニンニクのような臭いオニオンが生えていた。これがシカゴの名の由来となった。
その頃に初めてシカゴに住み着いたのはデュサブルというアフリカ系の男性だった。デュサブルの家は、シカゴリバーがミシガン湖に注ぐ所にあり、1780年代から1804年まで住んでいた。その後その家にはジョンキンジーという人物が1828年まで住んでいた。その対岸には1803年にディアボーン砦が建設されていた。当時と現在の地図を見比べると興味深い。デュサブルの家は現在、ミシガン通りのアップルストアになっている。
シカゴリバーが二手に分かれる分岐点の南側にソーナガッシュ・ホテルがあった。これは1833年に建てられたシカゴ初のホテルで、同年に当時の住人がそこに集まり投票によってシカゴ市が設立された。
このホテルは1851年に焼失し、同じ場所にウィグアムというホテルが1860年に建てられた。このホテルはリンカーンが大統領候補に指名されたゆかりの場所で、リンカーンはその年に大統領に当選した。
対岸のウォルフ・ポイントには当時小さな家があったが、最近まで空き地となっていた。現在はセールスフォース・カンパニーの本社を建設中。
日本と繋がるシカゴ
米国では南北戦争が1865年に終わり、国の復興が始まった。日本も1869年に戊辰戦争が終わると、国づくりが本格化した。
このタイミングが非常に大切だとカー氏は語る。1871年に岩倉ミッションが欧米に向けて出発し、翌年の2月にシカゴに到着した。
折しも大火の4か月後のことで、岩倉氏はシカゴ市の女性と子供のために5,000ドルを寄付した。ゴールド換算すると、今日の10万ドルの価値があるという。岩倉ミッションは、おそらく大火後初の外国政府の訪問で、シカゴと日本との重要な交流となった。
シカゴの大火と建築
1833年のシカゴ設立当時数百人だった人口は、1868年には30万人に膨らんでいた。1871年10月8日に発生したシカゴの大火は、北はリンカン動物園辺りまでを焼き尽くした。18,000軒の家やビルを破壊し、10万人が住居を失った。
完全に残ったのはウォータータワーのみだった。これは1869年に建設されており、石造りの耐火性ビルだった。
押し寄せる建築家
再建のために多くの建築家がシカゴにやって来た。カー氏はそのうちの著名な3人について話した。
1.ウィリアム・ル・バロン・ジェニー:
ジェニーはフランスでグリーク・ローマン建築と技術を学んだ建築家だった。ビルは耐火性を重んじ、煉瓦、石、鉄を建材とした。高層ビルを建てたのは不動産を最高に生かすためだった。
ジェニーは重い石造りの高層ビルの沈下を防ぐため、基礎に多くの杭を打ち込みビルを安定させた。また金属構造を採用した。
1884年にジェニーが建設したホーム保険ビルディングは世界初のスカイスクレイパーといわれる。このシカゴで開発された建設技術は、現在の高層ビルにも使われており、ジェニーは「高層ビルの父」と呼ばれている。
2.ルイス・ヘンリー・サリヴァン:
サリヴァンはジェニーの弟子だが、ヨーロッパ建設をコピーせず、アメリカの精神を反映する独自の建築スタイルを生み出すべきだと考えていた。
3.フランク・ロイド・ライト:
ライトはサリヴァンの弟子で、サリヴァンの思想に同調していた。だが後に独立し、まさにプレアリー・スタイルというアメリカ独自の建築スタイルを生み出した。ライトのこのスタイルを触発したのが1893年のコロンビアン万博に建設された日本の鳳凰殿だった。
コロンビアン万博とジャクソンパーク
シカゴは大火から約20年で、アメリカ史上最大と言われるコロンビアン万博を開催するまでに復活した。その準備はどの様に進められたのか。
ニューヨークのセントラルパークを設計したフレデリック・オムステッドがいた。彼は1869年から1871年にかけてジャクソンパークとワシントンパークを設計していたが、シカゴの大火により実現しなかった。
それから20年が経ち、オムステッドの設計が万博会場に生かされることになった。
建築家のダニエル・バーナムが万博建設物の総指揮をとった。オムステッドが景観を担当し、この2人が重要な役割を果たした。オムステッドは会場の中心にウッディド・アイランドを造り、ここに日本が鳳凰殿を建設した。
バーナムはアメリカの近代文化の高さを示すために、万博会場にはヨーロッパスタイルを元にしたネオクラシック、新古典派のビルを建設した。
ゆえにアメリカ独自の建築を目指すサリヴァンとバーナムとの闘いがあった。それは、アメリカ建築の将来を示唆するものだった。
鳳凰殿
日本は1890年に参加を呼びかけられ、シカゴに視察に訪れた。大火から立ち直った街を見るにつけ、日本は憲法を持つ文明国として世界にアピールする絶好の機会だと考えた。
そして、日本の豊かな文化を世界に学んでもらうために、宇治の平等院を模した3つの建物から成る鳳凰殿を岡倉天心が建設し、一旦分解し、ウッディド・アイランドで組み立てた。中央の建物には徳川時代の文化を、右には足利文化を、左には藤原文化を展示した。日本は開国から40年、明治維新からまだ25年目の事だった。
鳳凰殿は1893年3月31日に完成式が行われた。そこにはバーナム、サリヴァン、ライトを始め、多くの主要関係者が顔を揃え、その模様は新聞の第一面を飾った。
フランク・ロイド・ライト
ライトは万博の年にサリヴァンから独立した。ライトに最大の影響を与えたのは鳳凰殿だった。
ライトは鳳凰殿を模写するのではなく、その要素をアメリカの家に取り入れて融合させることだった。そしてプレーリー・スタイルを創出した。その最たる形が1909年に完成したロビーハウスだった。ロビーハウスはシカゴ大学キャンパスに隣接した所にある。
ロイドが注目したのは、壁に囲まれた部屋にこだわらない鳳凰殿の融通性だった。それは障子やふすま、外と繋がる縁側だった。
ロビーハウスの広いフロアにドアや部屋はなく、低いスクリーンや家具などでダイニングや団らんのスペースなど、それぞれの用途が感じられる。その様な環境をライトはロビーハウスで実現した。
また、ロビーハウスには家の内部と外の自然を繋ぐ場所として、縁側の造りが取り入れらている。
この様にライトは日本建築をコピーすることなく、日本建築の要素がロイドの創意革新のカギとなっている。そのアイディアはまさにジャクソンパークで発生したものだった。
ロイドは1905年に日本を訪れ、約3か月間日本を見て回った。日光にある東照宮を見たロイドは、「本殿」と「拝殿」、その2つを繋ぐ「相の間」を持つ東照宮の権現造りを、後にオークパークにあるユニティ・テンプルの設計に取り込んでいる。
鳳凰殿に鼓舞されたライトの建築物は世界に620軒以上ある。
ライトは帝国ホテルの林総支配人に見い出され、新しい帝国ホテルの建設に乗り出した。オリジナルの帝国ホテルは老朽化し、暗く、カビが出て日本の気候には合わなかった。
ライトは鳳凰殿の要素を元に、日本でもなくアメリカでもない、比類ない建築物を設計した。建材は日本で調達したが、ロイドが本当に使ったのはシカゴの建築技術だった。
帝国ホテルを建てる日比谷地区は砂地で、近代的なビルを建てるには基礎に補強が必要だった。ロイドはその基盤作りにシカゴのテクノロジーを使った。
帝国ホテルは1923年9月1日に完成式が行われた。公式昼食会の6分前に関東大震災が発生し、東京と横浜一帯は壊滅した。だが、帝国ホテルはビクともしなかった。この出来事は帝国ホテルとロイドを世界的に有名にすることになった。
カー氏によると、現在の帝国ホテル2階にあるバーの中で、当時のインテリアの一部を見る事ができるという。
ライトは遠藤新という日本建築家の弟子を持っていた。ライトは日本で12軒の建築物を建てたが、遠藤が助けている。遠藤やその息子たちにより、ライトの建築物が日本に多く建設された。
日本の建築家の安藤忠雄は、高校生の修学旅行時に帝国ホテルを見て、建築家になる事をイメージしたという。
ライトと安藤はバウ・ハウスの近代ムーブメントを通じて繋がりがある。その安藤の弟子に東京大学で建築を学んだクラパット・ヤントラサスト氏がいる。カー氏の友人であり、ジャクソンパークの修復にも手を貸している。
その様な関係から、ヤントラサスト氏がオノ・ヨーコに鳳凰殿跡地を紹介し、2016年にオノ・ヨーコの巨大彫刻、蓮の花を組み合わせたSKYLANDINGが設置された。
1893年に戻るが、鳳凰殿は万博終了後に、日本とシカゴの友好と日本文化を学ぶ場所としてシカゴ市に寄贈された。シカゴ市もそれを受け入れ、維持する事を約束した。
1935年にはシカゴ市と日本政府、シカゴ美術大学、シカゴ日米協会などが協力して、鳳凰殿の前に日本庭園を造った。そして、鳳凰殿と日本庭園は日本国外で最高の日本建築と庭園だと見なされていた。だが、鳳凰殿は1946年に放火により焼失した。
日本庭園はシカゴ-大阪姉妹都市20周年記念として、大阪ガーデンと名付けられた。
2013年にはコロンビアン万博120周年を記念し、シカゴ日本商工会議所(JCCC)の寄付により多くの桜が植樹された。
カー氏は鳳凰殿跡地、日本庭園、桜並木を含む一帯を「ガーデン・オブ・フェニックス」と名付け、ジャクソンパークと共に総合的な復興を目指して活動している。
カー氏は鳳凰殿から120年を還暦の2巡と位置づけ、フェニックスの様に復活する時だと話す。
ガーデン・オブ・フェニックスは科学産業博物館のすぐ南にあり、西側にはオバマ大統領センターが建設される。
2025年に完成予定のオバマ・センターには年間80万人の訪問者が予想され、科学産業博物館には毎年150万人が訪れている。その人々がフェニックス・ガーデンを訪れれば、鳳凰殿から派生した日米間の人々の繋がりやアメリカ独自の近代建築の歴史を学んでもらう事ができる。今が正に復興の時となる。
(写真はすべてロバート・カー氏提供)