シカゴ日本人会、今日までの30年の歴史を祝う
シカゴ日本人会が創立30周年を迎え、11月4日に記念祝賀会を開催した。会場となったダブルツリー・ホテル・アーリントンハイツには来賓、創設メンバー、会員約100人が出席し、30年間の発展と社会貢献活動の成功を祝った。同祝賀会は副会長のジュレティック由紀氏の司会で始まり、30年の足跡をめぐるビデオ・プレゼンテーションも行われた。
シカゴ日本人会(Chicago Japanese Club – CJC)は、会員同士の相互援助と共に、文化交流、相互理解、教育促進などの社会貢献を通じて健全で豊かなコミュニティづくりに参加することをミッションとして活動を続けている。
来賓の岸直哉在シカゴ首席領事は「心よりお祝いを申し上げます」と述べ、「シカゴ日本人会の活動を支えて来られたすべての皆様、今日の会合を運営企画して来られたすべての皆様、30年間に亘ってミッションに沿った活動をして来られた初代会長の荻野会長から今の藤本会長まで歴代の会長に脈々と引き継がれて来た並々ならぬご苦労と工夫と連携があったと拝察いたします。心からこの尊い活動に感謝を申し上げたい」と語った。
また岸首席領事はCJCがかき氷の提供で人気を呼んでいる夏のピクニックに触れ、総領事館でも取り組んでいる在留邦人、日系アメリカ人、日本に興味を持つアメリカ人の交流促進が、既にピクニックの場で実践されている事に感銘を受けたと話し、CJCを始め、各団体が連携し日米関係促進が行われている事に感謝の気持ちを語った。
アーリントンハイツのトム・ヘイズ市長は、夫人と共に例年のCJC新年会に参加するのを楽しみにしていると話し、「アーリントンハイツとCJCのパートナーシップはアーリーン・マルダー前市長の時に始まり、今日までの30年間、CJCの歴史の殆どがアーリントンハイツと良い関係で結ばれている」と述べ、この関係の基礎を作ってくれた前市長に感謝し、CJCの30周年を祝った。
ヘイズ市長は「この夕べはアーリントンハイツの市長だけでなく、日系人の皆さんが居住し働くコミュニティの市長も代表して来ている」と話し、それらのコミュニティの市長達に代わって皆さんの貢献に感謝したいと述べた。
ヘイズ市長はアーリントンハイツの顕著な多民族化にも触れ、ビレッジ議会はアーリントンハイツに住み仕事を持つ皆さんが、ビレッジ・コミュニティに溶け込み、コミュニティの一部と感じてくれ、誰もが歓迎されていると思ってくれるようにずっと努力を続けていると語った。また、他のコミュニティーの市長や議会も同様に思っているだろうと語った。
誰もがヘイズ市長に尋ねたいのはシカゴ・ベアーズ! ヘイズ市長はそれに応え、ベアーズ誘致の近況について語った。
ヘイズ市長によると、今は非常にチャレンジングな時期だという。ベアーズはアーリントンパーク競馬場の跡地は購入したが、スタジアム建設や開発についてはまだ話し合いが続いている。
ヘイズ市長は「翌週の月曜日にはベアーズと会合を持つ。だから諸事は非常にポジティブな方向へ進んでいると我々は勇気付けられている。我々は非常に熱意を持ってこの件に当たっている。というのも、これはアーリントンハイツでけでなく、ノースウエスト郊外に利益をもたらすからだ。約100年に及ぶアーリントンパーク競馬場とのパートナーシップを失った今、競馬場のようにレガシーを感じさせるエキサイティングなものを望んでいる。そのレガシーを我々はコミュニティ・パートナーとしてのシカゴ・ベアーズに見出している」と語った。
藤本光会長は「CJCが30年間継続できたのは、準備期間から設立、そして今日までの会員、理事、役員の方々の努力、周りのコミュニティからの温かい支援があったからだと思います」と述べ、「総ての方々の名前を挙げることはできないが」と前置きし、実行委員として大いに祝賀会開催を助けてくれたジュレティック由紀副会長、理事の吉田美紀氏、同じく市川葉留美氏、同じくメンジアよしこ氏の名前を挙げて感謝の気持ちを表した。また、東京からシカゴまで急きょ記念品を運んで協力してくれた会員の須恵一博氏にもお礼を述べた。
そして、CJC30年の活動をサポートしてくれた創立メンバー、過去と現在の会員、アーリントンハイツなど周辺コミュニティの人々、在シカゴ総領事館やキッコーマンフーズ社や地元ビジネスの協力や援助に感謝し、乾杯の音頭をとった。
設立者で初代会長の荻野敏雄氏は、1年前から30周年祝賀会の準備を進めてくれた総てのCJCメンバーに「かくも楽しいひと時を開いてくれた」とお礼の言葉を述べ、同会設立の経緯を次のように語った。
荻野氏を含む13人の発起人が設立について検討し始めたのは30年前より7年遡る。発起人達は、第二次世界大戦後にシカゴに住むことになった「新一世」の会が果たしてシカゴの土地に必要なのか、設立の意味は何か、既存の日系団体に属したとすれば新一世に何ができるのか、また設立したとして新一世のために意義ある会にできるのかと言う点を中心に、7年間アイディアを練り続けた。
その上で発起人達は50歳代の情熱をもって不安や疑問を乗り越え、1993年6月に約80人の会員を得て創立総会を開いた。
「30年と言う月日は長いんです。あの頃、我々は50歳代でした。今はもう80歳代ですよ」と荻野氏は設立から30年の月日に思いを馳せる。会場には発起人の星名修治氏、後藤美郎氏、谷本武士氏が出席していた。
荻野氏は「会員各位の参加と役員や理事のご奉仕とサポートで日本人会が本日まで30年間続いたのは、私達の決断が間違っていなかったという証だと思うんです」と述べ、「明日に向かい、若い新一世の参加を即して頂き、その方々にミッションを理解して頂き、その時代に沿った運営をして頂ければ、このシカゴ日本人会は不滅です!これからも続きます!よろしくお願いします」と挨拶を結んだ。
シカゴ日本人会、ビデオ・プレゼンテーション
シカゴ日本人会は1993年3月に、当時の名称MAJC Mid America Japanese Club(MAJC)として発足した。設立者で初代会長の荻野敏雄氏のもと75人の会員が、日本語を母国語とする同志達の相互援助、親善推進、日本文化の紹介や地域社会との交流促進といった目的意識を持ち活動を始めた。
MAJCは1998年にシカゴ日系人会と正式に合弁し、ボタニック・ガーデンで行われていた日本祭りを引き継ぐことになった。日本祭りが有名になると共に会員数も増え、ボランティアの募集も容易になった。
2005年には日本祭りの開催場所をノースウェスト郊外、アーリントンハイツのフォーレストヴュー・エデュケーション・センターに移したことからその人気は更に高まり、シカゴ郊外の一大イベントとしての座を確立した。
その後、日本祭りの総合運営はシカゴ日米評議会に移行され、近年はシカゴ市ダウンタウンで開催されているが、日本祭りの人気の背景にはシカゴ日本人会の会員が日本祭りを育てて来た努力やノウハウが生かされている。
日本祭りの他にも、日本人会は新年会、各種講演会、大フリーマーケットの開催などで、地元社会にも根付く会へと成長を遂げた。
2013年にはMAJCからシカゴ日本人会に名称を変更し、新一世の心のよりどころとしても大切な役割を果たして来た。
日本人会は、家の修理などを助ける「お助けチーム」の活動をはじめ、ゴルフ・コンペやピクニック、カラオケ大会、コンピューターサロン、ネットワーク・イベントなどその活動を広げている。
コロナ禍においては手作りマスクの配布や、会員でもある認証医師によるコロナ感染に関する複数のセミナーを開催するなど、会員のみならず日本人コミュニティ全体にも大きく貢献した。
シカゴ日本人会は時代と共に進歩を続けている。会員間で情報を共有していた会報「新風」はネットベースのニュースレターに変わり、理事会や年次総会もオンライン、またはハイブリッドで開催されるようになった。コロナ禍により、新年会やコンサートもヴァーチャルで行われるなど、会の運営や活動がデジタル化する時代ともなった。
近年ではCJCのホームページも刷新され、フェイスブックやインスタグラムなどのSNSを通じた情報発信もより多くの人々に発信できるようになった。
会員数は200名近くに増加し、会員の年齢層や職業も多様化した。日本人会は時代の変化に対応し続ける一方、その真髄であるミッションは変わらない。シカゴ日本人会は会員同士の交流や助け合いを基盤とし、地域社会の一員として文化交流、相互理解、教育の促進に努め、健全で豊かなコミュニティづくりを目指し続ける。
ビデオプレゼンテーションの終わりには、多くの会員が交互に画面に現れ、「We are CJC.」と互いに声を掛け合った。
尚、ビデオ制作はメンジアよしこ&リチャード夫妻の協力と、リチャード・メア氏のナレーションで行われた。
30周年記念コンサート
CJC実行委員の皆さんが「美味しいものを」とダブルツリー・ホテルのメニューから選んだ心づくしの夕食の後は、相良奈美さんとバンドメンバーによるコンサートが行われた
相良奈美さんは、東京芸術大学音楽部声楽科でソプラノを選考して卒業している。「エクセントリック・オペラ」というユニットを結成し、エピック・ソニーから5枚のCDをリリースしている。オペラだけでなく、ジャズやロックなどジャンルを超えた音楽を自由自在に歌う奈美さんは、この数年日本祭りにも出演し、今年はアニメソング歌い、美しい声と豊かな声量で聴衆を魅了した。
CJCは奈美さんに事前に往年の名曲をリクエストし、奈美さんはそれに応えて下記の曲を歌った。
1.橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」(1962年)
2.山口淑子の「蘇州夜曲」(1940年)Soshu Night Song.
3.エルビス・プレスリーの「Can’t Help Falling in Love」(1961年)
4.森田公一とトップギャランの「青春時代」(1976年)Once Youthful Days
5.フランクシナトラの「My Kind of Town」(1964年)
6.そして最後は「ふるさと」をCJCメンバーと合唱した。My Country Home
30周年を記念する染絵てぬぐい
CJC30周年の記念品として、染絵てぬぐいが出席者に贈られた。これは浅草で三代続くふじ屋に特注して作ったもので、葛飾北斎の波のデザインに触発されたふじ屋初代の作品「北斎波」と呼ばれる絵にシカゴ日本人会の名前を入れて染め上げたもの。「大きな荒波が幾重にも押し寄せる絵柄は、この荒波のような困難をいくつも乗り越えて来たCJC会員の皆様の人生を象徴しているとも言えるのではないでしょうか」とジェラシック由紀副会長は会場に語り掛けた。
また、ジェラシック副会長は「30周年という節目を経て、会員の一人一人がCJCに更なる発展と向上をもたらすべく、その意を新たにされたのではないでしょうか」と述べ、30周年祝賀式典を結んだ。
尚、CJC2024年新年会は、1月20日(土)に開催される。詳細はhttps://chicagojapaneseclub.org/で。