大阪のソーシャルワーカーが語る日本の社会福祉の現状
シカゴ市と姉妹都市提携している大阪市から、ソーシャルサービス関係者5人がシカゴ市を訪れ、シカゴ市内の社会福祉施設の視察を行った。去る6月22日の最終日にはシカゴ姉妹都市インターナショナル主催の2024年ソーシャル・サービス・カンファレンスがシカゴ市ノースサイドにあるエピファニー・アーツ・センターで開催され、大阪市を含む9か国の姉妹都市のソーシャルサービス関係者らが、各々の社会福祉状況や活動について発表し、意見交換を行った。
同カンファランスの議題は「社会福祉におけるイノベーション:新しいアイディアと施策を通して育むグローバル・コネクション」で、トピックは以下の通り。
・高齢者が直面する問題‐課題に取り組み、健康的な高齢化を促進する。
・労働力の活性化‐専門職が社会福祉事業に参入し、活躍する機会を加速させる。
・包括的なコミュニティ‐制度的不平等と闘い、多様なアイデンティティを受け入れる。
・情報に基づく心的外傷のケア‐戦争、自然災害、ジェンダーに基づく暴力、難民、移民の生存者に力を与える。
・メンタルヘルス支援の拡大‐創造的なアプローチと地域社会支援を活用する。
カンファレンス終了後、シカゴ新報は特別養護老人ホーム「こうのとり」の北野智傑施設長、釜ヶ崎⽀援機構の小林大悟新体制事務局長、大阪自彊館障害者支援施設エフォールの古元敏生グループリーダーにお話を伺った。
インタビュー
社会福祉法人優心会 特別養護老人ホーム「こうのとり」
施設長 北野智傑氏
北野智傑(きたの・ともひで)氏は、介護福祉士、社会福祉士、介護支援専門員、大阪市認知症介護指導者と多くの資格を持つ。大阪市平野区にある優心会ではデイサービスセンター、ケアプランセンターも運営し、地元コミュニティの住人と老人ホーム居住者との交流イベントなども実施している。
Q:特別養護老人ホームにはどのような方々が入居されているのですか?
北野:現在、7割から8割が認知症の方々です。
Q:私の知人が突然に過去の事を忘れてしまい、出入り口が施錠された老人ホームに入れられ、「帰りたい、帰りたい」と言っていました。とても気の毒でした。
北野:先ほどパネルでも話したのですが、日本でもエレベーターや玄関をロックしている施設が殆どなんです。
私が社会福祉法人「優心会」を立ち上げた時は、エレベーターも玄関もロックしない開放的な環境を作ろうという形で始めました。6階建ての建物ですが、入居者の方々は自由にエレベーターで移動できます。今までにそれによって怪我をされたり事故が起きたりした事はありません。
開設から5年が経った頃、暑い日にエレベーターの中に一人で座っている方がいました。熱中症や脱水症を懸念した看護師が一度だけエレベーターをロックしたことがありました。その時にエレベーターの前でずっとボタンを押して待っている方がいました。もう一人の方は非常ベルを押して、自動的に開いたドアから階段に出て降りて行かれました。
その状況を目の当たりにした職員が、やはりロックしてはいけないと気持ちが変わったという事もありました。
館内を自由に移動できるので、家に帰りたいとはなりにくい。職員が見張っているような環境では、入居者の方が安心できる場所になっていないという事です。行動を止めれば止めるほど「何でや?」と思われるでしょう。職員さんのことを「私の味方だ」と思ってもらえれば入居者の方々は安心して暮らすことができます。
Q:玄関も解放されていると、外に出る方も?
北野:いらっしゃいます。そういう時の私達の仕事は、自分の仕事の手を止めて一緒に歩いて散歩する、本人さんの気持ちをお聞きすることです。そうすれば本人さんが「暑いなぁ。戻ろうか」と言って戻られます。
本人さんが納得していない中で運転免許証を取り上げたり、そっちは危ないなどと制限すれば余計に混乱します。根気強く本人さんが納得するまでお話しするのが大事で、納得されたら一切、一人で外に出る事はないです。
Q:今回、同様の老人ホームを視察されましたか?
北野:シカゴでもエレベーターなどは全部ロックしています。やはり身体的な怪我のリスク回避が優先され、本人さんの精神的に豊かな生活を送ることを損なうリスクは後回しにされている状況かなと思います。
総て解放的な環境を作る事で入居者の皆さんが自由に動き回れ、その事により体の能力が上がって行くんですよ。転びにくくなりますし、閉じ込められていないという事で安心感があり、外に出て行こうとしないんです。そこに気付かないといけない。如何にこの考えを広げて行けるかが大きな課題になって来るでしょうね。
自由に家族や知人に会えるのも大事だと思っています。コロナ禍の影響もあって殆どの施設が面会を制限している状況ですが、優心会は自由にしています。そうすれば入居者も安心するし、家族の方々も安心されます。家族の方々が苦情を言いたい気持ちになるのは、中が見えないからです。やはり会って、介護や支援の様子を見てもらう事によって家族の方々の不安もなくなります。
Q:本当に認知症の方々に対する理解が大事だと思うのですが、認知症についての教育の動きはありますか?
北野:そうなんですよ。だから優心会の一部を使って月に一度、子供から大人まで地元の方々を巻き込んで「こうのとりのたまご」という、地域の居場所作りをやっているんです。
やはり地域で孤立している方もいるし、その日に食べるものにも困っている人、家に引きこもっている人、高齢所帯で世間との関わりが薄くなっている人達がたくさんいらっしゃるんですね。だから地域の居場所っていうのが大事と思うので。
その日は赤ちゃんや小さな子どもを親御さんが連れて来たり、高齢者の方々もたくさん来られます。子ども達が自由に遊び回れるという場所を作って、そこで多世代との交流が図れるという形で、繋がりたいけど繋がり方が分からないという人達がここに居ても誰も否定しない、ここに居てもいいのだという安心できる場所を作っています。
そういう場所作り、そういう輪が広がると、介護職員や専門職の人達が認知症の方々を支援するのではなく、子どもから大人まで地域みんなで、誰もがお互い様で支援に関わり、助け合って行こうとなるんじゃないかと思っています。
そういう仕組みを私達がやって行くことによって、困っている方々が少なくなって行くと思うんです。その方々の生活を豊かにして行くためには、介護するのは専門職じゃなくて、みんなで協力し合う事が大事じゃないか、それがアメリカに来て強く思ったところです。見返りを求めるのじゃなく、自分もしてもらったから周りにもして行こうという輪が広がって行く事が非常に大切だなと思いました。
認知症とレッテルを貼っちゃダメ。認知症になったら何も分からないじゃない。すべてを私達が介護でやってしまったら、本人さんはどんどんできない人になってしまう。やはり本人さんの能力をどれだけ伸ばして行くか、それによってその人の生活がより豊かに変わって来ると思います。
Q:どうして社会福祉の仕事を選んだのですか?
北野:文系の大学に行ったので、就職先はだいたい営業職でした。勝手なイメージですが、人を蹴落として成り上がって行くようなイメージがあって、自分には合わないと思ったので、病院やナーシングホームの福祉事業所が募集していたボランティアに応募したんです。
夏休みや冬休みにボランティアで排せつや入浴の支援をさせてもらって、これは自分の仕事として向いているんじゃないかと思いました。大学卒業後に専門学校に行き、介護福祉士の資格を取得し、介護施設に勤めたという経緯があります。
私は42歳になりました。理想を実現させるというのが大きな原動力になっているので、少しでも認知症や高齢者への理解が深まり、みんなで助け合える環境をいかに作って行けるか、悩む所ではあるんですけど、愛があれば皆さんに伝わって行くんじゃないかと思っています。諦めたくないという強い思いがありますね。
認知症の方も体が動かない方も、お互いに気に掛け合っているんです。寝たきりの方の部屋に毎日何度も間違って入って来る人がいて、寝たきりの方は怒っていました。しかし間違って入って来る人が亡くなって入って来なくなると、寝たきりの方は「あの人、どうなったんや?」と気にされていました。入居さん同士がそうやって社会的な関係を築かれていたのだと実感しました。そういう理解が一般の人々の間に広がって行ったら嬉しいと思います。
Q:ありがとうございました。
優心会のウェブサイトはhttps://yuushinkai.or.jp/
認定NPO法人 釜ヶ崎支援機構
新体制事務局長 小林大悟氏
Q:釜ヶ崎は日雇い労働者で知られる所ですね。私の夫も学生時代の夏休みに釜ヶ崎の日雇いで働き、豊中ボールの周りの溝は全部自分が掘ったと自慢していました。小林さんはどんな支援をされているのですか?
小林:釜ヶ崎支援機構は大阪市西成区の萩之茶屋にあり、一般に釜ヶ崎と呼ばれる地域でホームレスの支援をしています。
例えば、ホームレス。家がない人のシェルターを運営していたり、仕事を紹介したり、ホームレスの人のために仕事を作ったり、家を得ることができた人に向けて、その後の生活のサポートをしたりしています。
また、日本では住宅費と生活費のサポートを国から受けられるんですが、アルコール依存症やギャンブル依存症の人はそのお金をすぐに使い切ってしまったりするんです。ですから、アルコールに代わる楽しい事、ギャンブルに代わる喜びなどを見つけて提供する仕事をしています。そうすれば依存症の人達はアルコールやギャンブルにお金を全部使わずに、自分の生活をもっと大事にできるようになるんです。
Q:もの作りなどですか?
小林:そうですね。そういう機会を提供してサポートしています。
Q:日雇いの仕事はどうやって?
小林:釜ヶ崎は朝5時から日雇い労働の仕事の募集をしていて、皆が集まって来る地域ですね。殆ど肉体労働です。
Q:仕事にありつけない人はどうなるのですか?
小林:その日ぎりぎりの生活をしている人は、もう寝る所も食べるものも無くなってしまいますね。
2000年の頃までは路上で生活していたんですけど、その後シェルターができたんでそこで寝泊まり出来るようになりました。シェルターの中ではほぼ毎日炊き出しをやっているので、食べるものも一応あります。
Q:ボスのように威張る人が出現して来ませんか?
小林:シェルターは我々の団体が運営していて、そうならないように徹底的に気を付けています。
今も毎日120人ぐらいの方がシェルターを利用していますが、そういった人間関係のトラブルは減っていて、違ったトラブルが起きています。
日本全体が高齢化している中で、シェルターも高齢化して来ていて、認知症にまつわるトラブルが起きています。例えばトイレの場所を忘れてしまって床で用を足してしまったり、シェルターの中で自分の寝る場所や荷物を忘れて困ってしまったり、そういうトラブルが今かなり増えてます。
Q:シェルターでは個々にベッドが割り当てられているのですか?
小林:コロナ禍が始まるまでは誰でも入ることができて、ベッドだけ指定した紙を渡していましたが、コロナ禍になってからは知らない人が入る事のリスクが高くなってしまったので、登録制に変わりました。
シェルターで寝泊まりしたい人には、偽名でも問題ないんですが、名前を書いてもらってカードを発行して、そのカードを入り口でかざすと、自分の寝る場所が表示されるようになっています。
Q:年齢制限はありますか? 90歳でも寝泊まりできますか?
小林:90歳でも入れます。ただ、西成区は日本で一番平均寿命が短い地域で、やはりホームレス状態の人や日雇いの建設労働をやってた人というのは、身体に悪いものをいっぱい吸い込んだり、不摂生な生活をしていたり、栄養状態が良くなかったりするので早死にします。釜ヶ崎では日本の平均年齢より10歳以上早く死にます。だから、90歳の人はいないんですよ。
いわゆる肉体労働をしている人が殆どなので、過酷な肉体労働で身体を壊してしまった人がたくさんいるんです。そういった人たちは肉体労働ができなくなってしまったので、身体に負担がかからない仕事を作る努力を我々はやっています。
例えば、古着屋さんが仕入れた服の毛玉取りをさせてもらったり、そういった仕事を見つけるのも大変です。どんどんIT化されて行ってますから、そういった仕事が無くなって来ているんです。
Q:どれぐらいの人数を助けているのですか?
小林:正確な数字は言えないですが、おそらく釜ヶ崎支援機構では年間で、1500人から2000人の方のサポートをしています。
Q:ホームレスの方々の何割ぐらいをカバーしているんですか?
小林:割と正確な数字で行くと、日本全国のホームレスが今2800人なんですけど、その中の300人ぐらいは我々がサポートしていますね。
Q:費用は大阪から出ているのですか?
小林:西成区、大阪市、大阪府、国から予算が出ています。
Q:どうしてこの仕事選んだのですか?
小林:貧乏で差別を受けたというのもありますし、僕が10歳の時に母が鬱病になって、ずっと引きこもりになりました。今も引きこもってるんですけど、上手く自分を表現できなくて辛い人達、上手く世の中に繋がれない人達が近くにいた事もありましたし、僕は子どもが好きで、たまたま釜ヶ崎の子供達のチャイルドケアサポートをしている団体にボランティアで行く機会がありました。それで西成でボランティア活動をする機会が生まれて、すごい楽しい町やなと感じて、そこからどんどんのめり込んで行って、今に至ります。
Q:若い時に苦労されて良かったですね。
小林:そう思います。苦労がなかったら成長がありません。その経験がいろんな人と共感を生み合って繋がりがより深くなって行くことになったし、それをやっと理解できるようになったのがこの37歳ぐらいですね。
Q:ありがとうございました。
釜ヶ崎支援機構のウェブサイトはhttps://www.npokama.org/
社会福祉法人 大阪自彊館障害者支援施設エフォール
グループリーダー 古元敏生氏
Q:大阪自彊館(じきょうかん)でどの様な仕事を?
古元:障害者の直接的な支援からケアプラン、事務業務など多岐多様な仕事で何でも屋です。
自彊館は障害者支援施設です。元々は身体障害者療護施設でしたが、2013年に日本政府による障害者総合支援法が施行されて、障害者支援施設に名前が変わりました。障害には身体、知的、精神という3つの柱があって、どの障害でも受け入れられますというように変わったんです。
以後、身体障害のある方だけでなく、知的障害や精神障害がある方々も入所して住む事ができます。
障害者総合支援制度は昼の支援と夜の支援に分かれていて、施設に入所する人は夜の施設入所支援に該当します。一方、昼の支援にはいろいろあって、自彊館では生活介護という事業をやっています。作業をしたい人は、(自立した生活を送れるように支援する)デイサービスの別の事業所に参加してもいいし、昼と夜の支援ではサービスが違うんですよ。ですから昼と夜のケアプランの両方を作る必要があって、事務的に大変なところもあります。
Q:どれぐらいの方々が入所されているんですか?
古元:うちの施設は入所者が50人、ショートステイが10人です。
ショートステイ事業もやっていて、一泊二日から特例のロングもあって、七泊八日で来る人もいますし、その人に合った利用をして頂いています。
Q:ご家族の仕事や旅行の時などですか?
古元:それもあると思います。ですが基本的に障害のある人は家で生活していて、ヘルパーさんが入るんです。すごく大変ですよ。ヘルパーさんの時間数も一か月で決まっていて、月曜日から金曜日まで毎日、朝と夜の時間にヘルパーさんを入れていたら時間数が足りなくなる。それを補うためにショートステイを利用されるんです。
また、ヘルパーさんを使わずにショートステイを利用される方もいますし、家族の負担軽減のために週末に利用される方もいますし、本当に多種多様な目的で利用されています。
Q:アメリカの類似の施設に行かれました?
古元:宿泊を伴う所は無かったんですが、デイサービスのような生活介護に似たような支援をしているシカゴ市のアニクター・センターに行きました。
アニクター・センターの利用者は「自分で来れる人」と話していましたが、自彊館は基本的に送迎を出しています。家族の人が送迎することもありますが、自分で来れる人はいません。
昼の支援にはいろいろなプログラムがありますが、昼間の過ごし方にはお風呂の日もありますし、レクチャー的な日や余暇的な活動をして帰る日もあるし、早い時間に来た人はお昼ご飯を食べて帰る人もあります。
Q:社会福祉の仕事を選ばれたのは?
古元:話せば長いのですが、大学卒業後は普通に営業の仕事をしていました。地方の半導体工場に行って3か月帰らないとか、結構出張が多い仕事だったんです。
25歳の時に結婚して、29歳の時に子供が生まれました。その時に、これだけ出張がある仕事では家族としてやって行けませんよと妻に言われ、29歳で福祉の仕事に転職しました。今は49歳です。
今回シカゴに来て、こんなに勉強になる事ってありません。日本に持ち帰って実践できるかと言えば、難しとは思います。でもこんな世界があるというのを勉強させてもらい、本当に自分は幸せだなと思っています。
アメリカでは州ごとに違うそうで、障害だけについていえば、イリノイ州では障害のある方が100%支援されていない事から他州に出て行くというケースをちょっと聞きました。
日本では、日本の制度として決まっているので、どこに住んでも同じ支援を受けることができます。制度がしっかりしているという事は、支援する側のやるべきことががっちりと決められているので、我々がやらないといけない事が多いです。
一方、今日のカンファレンスで企業とのセッションがあり、障害者施設には企業や民間からも寄付があるということで、日本には無いそういった経済的な支援が多々あるのだということが分かりました。
Q:ありがとうございました。
大阪自彊館のウェブサイトはhttp://www.ojk.or.jp/