ゴジラの祭典“G-FEST”宝田明さんを偲ぶプレゼンや、ゴジラ映画スター達の講演会も

ゴジラや怪獣ファンの祭典、“第27回G-FEST”が7月15日から17日までの3日間、ローズモントにあるハイアット・リージェンシー・オヘアで開催され、全米のファンが結集した。新型コロナのパンデミックにより3年ぶりの開催となった会場は待ちわびたファンで賑わい、G-FEST史上最高を記録した2019年の参加者3,500人を超えたと見られる。

今年のG-FESTでは、3月に逝去した宝田明氏の活躍を振り返る追悼プレゼンテーションが行われた他、日本からの特別ゲストとして川瀬裕之氏(子役としてゴジラ映画や多くのテレビドラマに出演)や、藍とも子氏(メカゴジラの逆襲で真船桂役)が出席し、撮影や映画界の経験などを語った。アメリカ側からはゴジラ・ファイナル・ウォーズに出演したドン・フライ氏が出席した。

会場では特別ゲストによる講演会や怪獣映画の上映会、パネルディスカッション、レクチャー、特撮やコスチューム作りなどのワークショップ、怪獣アートの展示会、コスチューム・パレード、ビデオゲームなど数々のイベントが次々に行われた。

G-FESTは、カナダの高校教師でゴジラファンのJ・D・リーズ氏がゴジラファン向けにニュースレターを発行したことに始まる。1993年に初めて発行された“G-FAN”は、たちまち世界のゴジラファンの間に広まり、翌年の1994年に約20人の有志が初めてシカゴ郊外で顔を合わせた。シカゴに集まったのは、オヘア空港に全米・世界各国から乗り入れができるため。1995年に第一回G-FESTが開催されて以来、毎年オヘア空港近くのホテルで開催されている。(1999年と2000年はカリフォルニアで開催)

諸事情で出席できなかったJ・D・リーズ氏は「分離という声がより聞かれる中、G-FESTの仲間は大好きな科学空想物語、特にゴジラへの愛情で結ばれており、ゴジラファンの世界はジャイアンティック・ファミリーとなっている。結束と言う伝統と仲間意識を忘れず、G-FESTを満喫して欲しい」と公式プログラム冊子で述べている。

マーティン・アルト氏による宝田明追悼プレゼンテーション

宝田明氏(2012年G-FESTにて)

磨かれた才能、人間味あふれる大スター

宝田明を偲ぶ追悼プレゼンテーション

特別ゲストとして度々G-FESTを訪れゴジラファンの熱狂的な歓迎を受けた宝田明氏が、今年3月14日にこの世を去った。2019年が最後となったG-FESTの講演会で宝田氏は、戦争の悲惨さとゴジラ第一作に込められた反核のメッセージについて繰り返し語った。「戦争はしないというところに軸足を置いておかなければ」という宝田氏の声がまだ耳に響く中、ロシアのウクライナ侵攻により世界は戦争の悲惨さを目の当たりにし、核の脅威に戦慄した。宝田氏のメッセージを思い出すゴジラファンは少なくないだろう。

G-FEST中日の7月16日、講演会プログラムはマーチン・アルト氏による宝田氏の追悼プレゼンテーションで始まった。会場は500人を超えるファンで満杯となった。

アルト氏は「宝田さんはただのモンスター・アクターではなく、多くを成し遂げた偉大なスターだった。それを今日、お見せしたい」と述べ、数々の写真やビデオを見せながらプレゼンテーションを進めた。

戦争と生い立ち

宝田氏は1934年4月29日、日本統治下にあった韓国で生まれた。父が朝鮮総督府鉄道から南満州鉄道勤務となり、2歳の時に満州のハルビンに移った。日本人学校で日本語、中国語、英語を学び、厳格な父の影響で良く勉強した。

第二次世界大戦が始まると、近くの農家を手伝って野菜をもらい、家庭の食糧の足しにした。終戦近くになってロシア兵が侵攻して来ると、ロシア兵の靴を磨いたり煙草を売ったりして家計を助けた。ある日ロシア兵に腹を撃たれ、麻酔なしで鉛弾を取り出す手術を受けた。この傷は長い間癒えず、宝田氏を苦しめた。

宝田一家が実家のある新潟県に引き上げたのは終戦から2年後だった。やはり生活は困窮し、魚を売って家計を助けた。

俳優への道

その後一家は東京に移り、宝田氏は東京の高校に通った。その演劇部の舞台でスタンディング・オヴェーションを浴び、これが俳優になる一つの動機となった。

宝田氏は背が高く、飛び抜けてハンサムだった。友人が東宝のニューフェイス募集に宝田氏の写真を送ったことから、宝田氏はオーディションを受ける事になった。

オーディション会場の長い行列に尻込みした宝田氏は、帰宅しかけた。だが、そこにいた警備員に説得され、オーディションを受けた。アルト氏は「この警備員がいなければ、大スター宝田明はなかった。警備員にお礼を言いたい」と会場を沸かせた。

かくして宝田氏は1953年4月、東宝ニューフェイス第6期生となった。

映画俳優 宝田明

宝田氏のデビュー作は、福沢諭吉の生涯を描いた1954年の「かくて自由の鐘は鳴る」。同じ1954年に初回ゴジラの主役・尾形秀人を演じ、人気を博した。

以後200本以上の映画に出演し、怪獣ものから恋愛もの、ホラー、時代劇、コミカルな映画まで多くの役柄を魅力的に演じた。

ゴジラ映画と宝田氏についてはいろいろな場面で語られているが、1965年の「怪獣大戦争(英語名Godzilla vs. Monster Zero)では、宝田氏とニック・アダムズが共演した。二人は撮影後のナイトライフを楽しむ友人となった。当時、ミュージカル「南太平洋」のフルスコアを探していた宝田氏の元に、アメリカに帰国したアダムズ氏からその楽譜が送られて来たというエピソードがある。

宝田氏の映画活動は、死の直前まで続いていた。2019年8月に公開予定だった「ダンスウィズミー」はパンデミックにより今年の公開となり、宝田氏は同作品のプロモーション中だった。宝田氏は、一世を風靡した逃げ足の速いインチキ催眠術師・マーチン上田役を素敵に演じている。

宝田氏の最後の映画は、終活アドバイザーとして岩本蓮加と共に主演している「世の中にたえて桜のなかりせば」。同映画は今年4月1日に公開された。

才能あふれるパフォーマンス

アルト氏は「宝田さんの活動は、映画やテレビだけに留まらない」と話し、宝田氏の声優としての仕事、ミュージカルの舞台、CM出演など、宝田氏の豊かで磨かれた才能を写真やビデオを通じて披露した。

声優では、歌って踊る東京ディズニーの劇場展示、「オリビアちゃんの大冒険-ラディガン教授」や「アラジン」などのディズニー映画キャラクターの吹き替えなどで、素晴らしい声の演技を見せてくれた。

またミュージカルでは、「赤ひげ」「アニーよ銃をとれ」、「南太平洋」、「マイ・フェア・レディ」など多くの作品に出演し、数少ないミュージカル主演俳優として 不動の地位を築いた。

宝田氏は近年までロングランの「葉っぱのフレディ-いのちの旅」でルーク医師役を務めており、2010年にはニューヨーク公演を成功させた。この時には多くのゴジラファンが観劇したという。

宝田氏は多くのCMにも出演している。アルト氏は、歌を口ずさみながら軽快なダンスのステップを踏む宝田氏の「SEAMAN2」のCMを見せてくれた。

宝田明:完璧なゲスト&ホスト

G-FESTには、初代ゴジラを演じた中島春雄氏やウルトラQ主役の佐原健二氏など、怪獣映画のスターたちが毎年招待されていた。

宝田氏が遂にG-FESTに登場したのは2010年だった。満場のファンに迎えられた宝田氏は臆することなく「1956年のアメリカ版のゴジラ『Godzilla, King of the Monsters!』は、オリジナルに込められた反核のメッセージが消し去られている。ゴジラは人類に対するアラーム、人類は目覚めて平和な国を作らないといけない。私も戦時中に育った一人の人間として、そう思っている」とファンに呼び掛けた。

アメリカでは2004年に20都市でオリジナルのゴジラが上映された。2010年の宝田氏講演後にシカゴ新報のインタビューに答えたファン達は「私の名前は1960年代に反戦・反核を訴えたフィリップ・ダニエル・ベリガン牧師の名前をもらっている。ゴジラも同じメッセージを伝えている」、「アメリカ版のゴジラは骨抜きになっている。各国間に核について広範囲にカバーする良い条約があればいいと思う」などと話し、宝田氏の話に賛同した。

宝田氏のシカゴ滞在を世話したアルト氏は、シカゴツアーの様子や、謙虚さを失わない宝田氏の様子について話した。

その翌年の2011年、アルト氏らG-FEST役員メンバーはG-ツアーを組み、東京へ飛んだ。東京では宝田氏が全てツアーをアレンジしてくれた。東宝のスタジオも見学させてくれ、怪獣映画に使われた怪獣スーツや大道具・小道具なども見せてくれた。また、怪獣映画に関係する監督やスター達を一室に集め、ミーティングも設定してくれた。そこには中島春雄さんや、初代ウルトラマンの古谷敏さんの姿もあった。

G-ツアーは2015年まで続き、その度に宝田氏がツアーの世話をしてくれたという。

宝田氏は2012年、2016年、2019年にもG-FESTに出席した。仕事上出席できない時はゴジラ映画の監督や人気のスーツアクターが出席できるようにアレンジしてくれた。

アルト氏は「宝田さんはいつもアンバサダーだった。日本に帰ればG-FESTの事を友人に話し、G-Festに行くように勧めてくれていた。宝田さんは本当にG-FESTのゴッドファーザーだった」とプレゼンテーションを結んだ。

ファンの声

60年来のゴジラファンのマイク・ボイルさんは「宝田さんが最初に来た2010年に会いました。私が今までに会った、最高に素晴らしい人物の一人です。宝田さんは我々ファンをとても大事にしてくれて、いつも我々に感謝の気持ちを表してくれました。彼の素晴らしさを言い尽くす言葉はありません。娘と一緒に3回宝田さんと話しましたが、いつも大好きな俳優でした。特に好きなのは『モスラ対ゴジラ』。宝田さんはいつも、長く心に残る印象を残してくれました。とても魅力的で、目をそらすことができない人ですね」と語った。

ボイルさんは1960年代の少年の頃からテレビのシリーズでゴジラ映画を見ていた。だが1965年後でも、3本か4本しか見られなかった。それからしばらくはゴジラ映画を見なかったが、1980年代になってHBOで新しいゴジラ映画を放映するようになり、またゴジラ映画を見るようになった。息子のマークさんもゴジラファンになり、G-FESTにはオハイオ・シンシナティから車で一緒に来ている。もう6、7回は来ているという。

マーク・ボイルさんは例年の日本からのゲストの名前を空で言えるほどの熱心なファンだ。「5歳の時でした。家に帰ると、父がゴジラ2000のビデオを見ていました。余り恐竜に夢中ではなかったのですが、ゴジラはとても違っていてクールでした」と思い出を語る。

すっかりゴジラファンになったマークさんは、父のマイクさんと一緒にビデオ屋に行ったり友達に聞いたりしながらゴジラ映画を集め始めた。一体何本あるのか、誰も確かなことは知らなかったという。

マイクさんは「息子の興味が高まり、私の興味も蘇り、ゴジラのビデオを集め始めました。たまたま、一緒に仕事をしている看護婦がたくさんのVHSテープを持っていたので、彼女から借りてすべて見ました。それからです。G-FESTをシカゴでやっていることを知り、ここに来るようになりました」と父子の熱いゴジラファン歴を語った。

1970年代に子役としてゴジラ映画やテレビドラマに出演した川瀬裕之氏

川瀬裕之:子役で活躍

特別ゲストとしてG-FESTに出席した川瀬裕之氏は、子役としてゴジラ対ヘドラ(1971年)やゴジラ対メガロ(1973年)をはじめ、数本の映画に出演している。この他「帰って来たウルトラマン」や「ミラーマン」をはじめ、数々のテレビ番組にも出演している。

デビュー作は黒澤明監督初のカラー映画「どですかでん」で、乞食の子供役を演じた。

川瀬氏は小学校に上がる前に児童劇団に入っていた。小学生になればやめるつもりだったが、30分間全く動かずに寝ている王子様の亡き骸の役が映画関係者の目に留まり、どですかでんに推挙された。

Q:有名な黒沢監督の映画でデビューしましたが、黒沢監督はどんな人でした?

川瀬:怖い人だと聞いていましたが、子供にはとても優しいオジサンでした。

例えば演技している時にあくびをしてしまったら、それをシーンに取り入れてしまうような人でした。でも助監督には、子供だから言葉で教えるようにと指示していました。

Q:ゴジラ対ヘドラで、海洋生物学者の息子の矢野研役はどうでした?

川瀬:撮影は殆どが冬で、学校は休みました。

最初に撮影したのはラストシーンでした。富士山の近くで3日間撮影しましたが、非常に寒かった。それが一番印象に残っています。

この映画はたぶん1ヵ月か2ヵ月で撮ったと思いますが、ゴジラや怪獣は一度見学に行って見ただけです。

最後のシーンも、棒の先に目印があって、ここにゴジラがいるからそこを見て(セリフを)言ってと、そういう指示が出ていました。

ゴジラ対ヘドラは子供には難しい内容でしたね。人間が公害を作っているというのは分かっている、でも解決法は分からないですね。50年前にこの話を作ったのは凄いと思いますね。今の時代でもこの映画の内容は(公害問題に)合っていて、先を見越した映画だったと思います。

Q:特撮テレビドラマ「流星人間ゾーン」でレギュラー出演を打診されていたそうですね。

川瀬:その話はありましたが、もう5年生になる時で、それでは学校に行けなくなるので辞めました。

Q:大人になってパイロットになられたのは?

川瀬:普通に大学に行って、就職活動でいろいろな企業に行く中で、たまたま入社試験を受けたら日本航空に採用されたという、それだけです。

Q:それではシカゴ線にも?

川瀬:シカゴには最近来てないですけども、良く来てました。だからシカゴには10回、20回と来てます。

Q:素敵ですね。どうもありがとうございました。

メカゴジラの逆襲でヒローイン真船桂役を演じた藍とも子氏

メカゴジラの逆襲でヒローイン真船桂役

藍とも子講演会

藍とも子氏は、1974年にウルトラマンレオに出演。第17話にカメラテストを兼ねて出演し、第26話から松木晴子隊員役で準レギュラーとして出演した。ウルトラマンレオ出演終了直後にオーディションを受け、チャーミングな真船桂役が決まった。それから50年近く経った今でも藍氏は美しい。

Q:メカゴジラの逆襲のオーディションには、松木晴子隊員の衣装のままで行かれたそうですね。

藍:あれはたぶん、爆発の後ですね。その時はウルトラマンレオを撮影していて、時間がないから本当にあの制服のまま走ってマネージャーに連れていかれました。東宝の撮影所がウルトラマンレオの撮影場所から近かったんですね。

(爆発というのは)MAC隊員が急に(爆発で)亡くなってしまうのを台本を見て知って、私達(隊員の役は)これで終わりという感じなんですよ。私はウルトラマンレオの数話しか出てないんですけど、最後に私の誕生日パーティの乾杯でドンと爆発しました。だから(あのシーンが)皆さんの印象に残っていて、ラッキーだったと思っています。

Q:真船桂はアンドロイドになりますが、それは難しかったですか?

 藍:難しかったです。本多監督から、私はいつもニコニコしているんですけど、今回は絶対に笑っちゃだめだよって、感情を入れない芝居をしなさいって言われました。

でもラブストーリーなのに感情を入れないってどうすればいいんだろうとか思いましたが、監督のご指導で言われる通りにやっていたという感じです。

 メカゴジラや自分が出演している映画を今見ると、芝居が凄く大げさで恥ずかしいなと思ってたんですが、ある方に、ゴジラや怪獣に負けないぐらいのオーバーな芝居をした方がいいんですよと言われて、あーそんなんだ良かったと思いました。

Q:東宝から東映に移った時は?

藍:東宝は雰囲気が素晴らしいですね。私にお嬢様みたいな感じで接して下さって。東宝で次の作品への出演が決まっていたんですけど、それが流れてしまって、東映からオファーが来ていたので東映に行きました。東映は全然雰囲気が違っていて、怖い感じでした。Q:1976年の特撮テレビドラマ「ザ・カゲスター」のヒロインに内定していたのに降りたのは?

藍:カゲスターのポスターも作っていました。

…今だから話せますけど、当時結婚しまして、その時東映の「ベルサイユのトラック姐ちゃん」にレギュラーが入っていました。カゲスターの話は余りはっきりと聞いていなかったし、レギュラーが2本入ると家にいる時間がないし、夫も役者だったので、これはちょっとまずいぞと思って降ろしてもらいました。その後も私のポスターが使われていたそうですね。

Q:その他撮影で思い出は?

藍:ゴレンジャーの時に、遠い所でロケがありました。私はその時、生まれて初めて寝過ごして遅刻したんです。寝坊して遅刻するって、こんなに精神的に辛いものかと思い、もう二度と遅刻しないと思いました。それ以後二度と遅刻したことはないし、約束の時間には早く行っています。ですからあの作品は私にとって、非常に印象的な作品になっています。

Q:今はどんなことを?

藍:歳を取ったので好きなことをやりたいと思って、朗読劇みたいな仕事をしています。私は長い間役者の仕事から離れていたので作品数も少なく、ネイムバリューもないのに、こうしてG-FESTに呼んで頂けるポジションにいられることが、本当に幸せだと思っています。本当に皆様に感謝しています。

藍氏が話し終えた後、会場からは割れんばかりの拍手が沸き上がった。

Previous
Previous

アンダーソン日本庭園でジャパニーズ・サマー・フェスティバル

Next
Next

日本の将来へ向けて:ソサエティ5.0構想とデジタル・トランスフォーメーション