442部隊のイーノック・カナヤ氏、フランス政府より最高勲章を受章

フランスのヤニック・タガンド在シカゴ総領事より、最高の名誉とされる「The Legion of Honor(外国人部隊勲章)」を受章する442部隊のイーノック・カナヤ氏

 第二次世界大戦中に第442連隊戦闘団で活躍したイーノック・カナヤ氏に、フランス政府より最高の名誉とされる「The Legion of Honor(外国人部隊勲章)」が贈られ、公式な授与式が5月9日にシカゴ市北部にあるレイヴェンスウッド・フェローシップ・ユナイテッド・メソジスト教会で行われた。

 この勲章は1802年にボナパルト・ナポレオンによって創設されており、フランスのために顕著な功績をあげた外国人戦士に授与される。受章者はフランス大統領の署名によって指名されるという厳格な勲章。442部隊はヨーロッパ戦線において、フランス北部にあるブリュイエールの町をドイツ軍から解放し、ボージュ山中で孤立していたテキサス大隊を救出し、フランスとイタリアの国境にあるゴシックラインと呼ばれる難攻不落のドイツ軍要塞を初めて落とした。現在99歳になるカナヤ氏は、バズーカ砲手として最前線で戦った。

 

 勲章授与式は、シカゴ二世ポスト1183部隊のコマンダー、ロバート・ハシモト氏がMCを務め、イーノック・カナヤ氏の略歴を紹介した。また、米国在郷軍人会第六支部元コマンダーのハワード・ヒエシマ氏が、100/442部隊の歴史と功績を紹介した。

 会場には柳淳在シカゴ総領事、イリノイ州退役軍人関連部のアンソニー・ヴォーン首席ディレクター、ディック・ダービン米上院議員代理のパトリック・レイノルズ氏、シカゴ第47区のマシュー・マーティン市議らが出席し、カナヤ氏を称賛し受章を祝賀する言葉を述べた。

 

ヤニック・タガンド在シカゴフランス総領事

 そして、ヤニック・タガンド在シカゴ・フランス総領事よりカナヤ氏に勲章が授与された。

 タゴンド総領事は、授与式前日の5月8日はフランスの第79回戦勝記念日であり、6月6日のノルマンディー上陸作戦「D-Day」の80周年記念日が近づいている誉れ高き5月9日に、フランスの解放に多大な貢献をしてくれたイーノック・カナヤ氏に「the Legion of Honor」のメダルを授与することに特別の意味を持たせた。

 

 タゴンド総領事は「カナヤ軍曹は19歳で米軍に入隊し、二世の名高い第442連隊戦闘団に配属された。この戦闘団は総て日系アメリカ人から成る連隊で、『Go for Broke』のスローガンの下に、そのスピードと正確さにより米軍で最高の戦闘団として知られている」と紹介し、「カナヤ氏は1945年2月に南フランスのフランスとイタリア国境沿いのアルプ-マリティムに配置され、第二大隊のF(Fox)小隊に配属された。この地域は険しい山岳地帯で、非常に危険な地域であり、防衛に最も困難な所の一つであった」と、フランスに於けるカナヤ氏の軍事活動の難しさについて話した。

 

 さらにタゴンド氏はカナヤ氏の軍務について、接近戦でのライフルマン、バズーカ砲手、小隊長、第六軍団の右翼の確保と防衛、ドイツ軍の撃退、襲撃、戦闘、国境パトロール、地雷原の設置やブービー爆弾の設置、鉄道トンネルの防御、捕虜捕獲と情報収取など、詳細に語った。そして、同年3月にはゴシックラインのドイツ軍要塞陥落のために派遣され、戦功をあげ、1946年7月に最後まで残っていた442部隊の一人としてヨーロッパを離れ、米国に帰還した。

 

写真左より、ロバート・ハシモト二世ポスト1183部隊コマンダー、イーノック・カナヤ氏、ヤニック・タガンド在シカゴフランス総領事

 タゴンド総領事は、カナヤ氏の戦闘における武勇、勇敢さ、大胆さを称賛し、また、442部隊のメンバーがコングレッショナル・ゴールド・メダルをはじめ、米軍で最多の勲章を受章している事に敬意を払い、「Mr. カナヤ、あなたは本当のヒーローです。ありがとございます、(そのお陰で)私は自由な国で育ちました」と述べ、カナヤ氏の胸に勲章を付けた。そして、カナヤ氏とタゴンド総領事はスタンディングオベーションに包まれた。

 

イーノック・カナヤ氏

 タゴンド総領事に礼を述べたカナヤ氏は「クレジットを付けたい」と話し、「この勲章は実のところ、私だけのものではない。私と同様に、第二次世界大戦で戦った総ての442部隊兵士が受章に値すると思っている」と述べた。

 カナヤ氏は「また、第二次世界大戦で戦った総ての兵士にお礼を言いたい。(ジャーナリストの)トム・ブローカー氏は『実際に、第二次世界大戦の兵士達が世界を救ってくれた。我々の総てが自由を得た』と述べている。彼は良い事を言ってくれたと思う。それが我々兵士の事でなければ、今日我々はこの場に居なかっただろう」と続けた。

 

 そしてカナヤ氏は「特に442部隊の兵士に礼を言いたい。我々は非常に多くの仲間を失ったからだ。彼らがそうしたのは、総ての日系アメリカ人が米国への忠誠心を証明したかったからだ。我々が戦ったのは我々の国のためだけでなく、強制収容所にいる日系アメリカ人を自由に、収容所から解放してくれるために戦った。このために、我々はどれほど戦ったか…」と話し、カナヤ氏の目に涙が滲んだ。

 

 カナヤ氏の娘のカローラ・カナヤ氏は、フランス政府による父への勲章授与に礼を述べ「このような誉れ高い勲章は軽々しく授与されるものではありませんが、父はそれに値すると思います。父は生涯を米国のために捧げて来ました」と語った。

 また、娘のバーバラ・カナヤ氏は「実際に父は、このレイヴェンスウッド協会の建設を援助し、ボランティアとして教会の管理に生涯を捧げて来ました」と語った。

 イーノック・カナヤ氏は健康で、車の運転をはじめ日常生活に支障はなく、442部隊を除隊後はずっとシカゴに住んで来た。だが、叙勲翌日にはバーバラ氏と住むためにニューヨークへ旅立った。

 

柳淳在シカゴ総領事

 挨拶に立った柳淳在シカゴ総領事は、約80年前に米国と日本は激しく戦ったが、今日は日米両国の人々の間の固い絆と相互信頼、そして深い友情が日米同盟とグローバル・パートナーシップの基礎となっていると話し、その絆は日系コミュニティを含むアメリカ社会の多岐にわたる団体のサポートによって築かれていると語った。

 そして柳総領事は、その良好な日米関係は部分的に、日本を祖国に持つ兵士から成る442部隊が見せてくれた米国への忠誠心と真摯な軍務のお陰かも知れないと語った。

 

 また柳氏は、命を懸けてリスクを取り、米国民の日系アメリカ人に対する偏見や嫌悪感をひるがえした442部隊の貢献を称え、どんな時にも誇りを失わず緊迫した戦場で戦った日系アメリカ人の歴史を、次世代に伝える事が我々の責務だと語った。

 

イーノック・カナヤ氏ストーリー

442部隊のイーノック・カナヤ氏

 イーノック・ハルオ・カナヤ氏は1925年5月にオレゴン州クラッカマスで生まれた。父はマサイチさんで母はフミコさん。父は1900年にワシントン州シアトルに移住、母はピクチャー・ブライドとして1914年に渡米し、同年に結婚した。姉のルビー・シゲコさん、兄のジミー・Tさんが生まれ、イーノック氏は3番目で末っ子だった。

 1941年12月7日、日本帝国軍による真珠湾攻撃で、カナヤ家の生活は台無しとなった。1942年9月10日、カナヤ一家はピュアラップ・アッセンブリー・センター(ワシントン州)に送られ、その後にアイダホ州ハントにあるミネドカ収容所に強制収容された。イーノック氏はそこで高校を卒業した。

 1944年1月に442部隊の兵士募集を始め、カナヤ氏はすぐに志願したが、「4C」として拒否された。その4ヵ月後、今度は「1A」として受け入れるという手紙を受け取り、カナヤ氏は同年5月21日にアイダホ州ジェロム・カウンティで米軍に志願した。同年6月21日に米軍のユタ州フォート・ダグラス基地で入隊し、フロリダ州にあるキャンプ・ブランディングで16週間の訓練を受けた。

 カナヤ氏よりも先にフランス入りしドイツ軍と戦っていた100/442部隊は1944年10月27日、テキサス大隊の救出を命じられた。テキサス大隊はボージュの山中でドイツ軍に囲まれ身動きができなくなっていた。数日で救出に成功した100/442部隊は800人の死傷者を出したが、救出後もドイツ軍との戦いはセイント-ディエの街に入る11月17日まで続いた。

 10月13日に2,943人の兵士と将校がいた100/442部隊は、ボージュでの戦闘で140人の戦死者、1,800人の負傷者、43人の行方不明者を出し、100/442部隊は総勢800人以下となった。

 カナヤ氏は1945年1月に補充兵としてフランスに派遣され、442部隊第二大隊のF「Fox」隊に配属された。そこではラインラント-マリティム-アルプス、北アペニン山脈、そしてポーヴァリー軍事作戦で軍務に就いた。

 カナヤ氏は軍曹に昇進し、ラインラント-マリティム-アルプス軍事行動でアルプスの下を走る鉄道トンネルの防御に就いた。また442部隊は、地中海北部からフランスのマリティム-アルプスまで18マイルに及ぶ地域のパトロールと防衛に当たった。442部隊の重要軍務は、ブレイ、カンヌ、リスキャリナ、マントン、モナコ、モンテカルロ、ニース、ピハキャヴァ、ソスペルを含む南フランス海岸の防御だった。

 

ゴシックライン

 カナヤ氏を含む442部隊は1945年3月半ば、秘密指令によりマルセイユ港に戻った。同年3月23日、442部隊は戦車揚陸艇に乗船し、3日間洋上を移動した。3月25日にイタリアのレボルノ-レグホーンに上陸した。ミッションは、カギとなる連合軍戦闘ユニットとして、ドイツ軍のゴシックラインを突破し、ドイツ軍を広大なポー・ヴァリーに押し込む作戦だった。

 同年4月3日の夜、442部隊の第一陣がそそり立つゴシックラインの岩山を登り始めた。カナヤ氏を含む第二陣は4日の夜に3,000フィートの山を登り始めた。45ポンドのパックを背負い、大量の銃弾を持ち、レインコートやシャベルなども背負った。2011年のインタビューでカナヤ氏は「若かったから平気だった。だが寒かったなぁ」という。山は急斜面で、ヘルメットを落とす兵士もいたが、敵には気付かれなかった。

 登山には8時間を要した。総攻撃開始時刻は5日の午前5時。カナヤ氏らのF小隊が登ったのはコードネームGeorgiaで、頂上に着くと数分後に攻撃が始まった。カナヤ氏らはドイツ軍の背後を突き、要塞は30分余りで陥落した。他の日系部隊が急襲をかけたFloridaやFolgoritaの山々の要塞も30分余りで陥落した。442部隊が初めて突破したゴシックラインは、それ以前の5ヵ月間、同盟軍の軍事行動を行き詰らせていた。

 最初の3つの要塞は30分余りで落ちたが、ドイツ軍はいつまでも眠っている訳ではなかった。次の山に進撃した442部隊は手榴弾やマシンガンで猛反撃を受けたが、442部隊は翌日の6日までにOhio 1, 2, 3とMount Belvedereの山々を次々に落として行った。8日までにMontignoso、11日までにMount BrugianaとCarrara、15日までにOrtonovoを落とした。

ドイツ軍は17日になると自ら砦を破壊して撤退し、Aullaで最後の抵抗を試みた。ドイツ軍の最後の砦はMount Nobbioneで、442部隊は19日にAullaの攻撃を始めた。

 

 21日、E小隊のダニエル・イノウエ中尉(後の米上院議員)は手榴弾で敵の機関銃巣を一つ一つ破壊していた。一つ目で腹部を撃たれたが二つ目を破壊し、三つ目の機関銃巣を潰そうと手榴弾を握っていた右腕を撃たれた。即座に左手で手榴弾を掴んで投げ、三つ目の銃巣を破壊した。その時、瀕死の敵が発砲し、イノウエ中尉は更に右足を撃たれたが、部下に進撃を命じ、E小隊はColle Musatelloを落とした。

 

 同日、カナヤ氏のF小隊はPariana村に攻撃を開始したが、猛烈なファシスト党の反撃に遭った。だがF小隊とG小隊が正面と左右から攻撃し、135人の捕虜を取った。

 数日後、442第二大隊がMount NebbioneとMount Carboloの右側から攻め、F小隊を含むタスク・フォース・フクダが左側から攻めてドイツ軍を挟み撃ちにし、ドイツ軍はAullaへ追いやられ退路を断たれた。25日にAullaが落ち、この頃からドイツ軍は降伏を始め、ヨーロッパ戦は5月8日に連合軍が勝利した。

 ゴシック・ラインの攻撃で、日系兵士101人が戦死、874人が負傷した。

カナヤ氏は1945年4月20日、勇敢な功績によりブロンズ・スター・メダルを受章した。

 

ヨーロッパ戦終結後

 1945年5月8日、カナヤ氏と442部隊は第二次世界大戦のヨーロッパ戦の終結とともにスイスとの国境近くのイタリア北部に配置された。そして、1946年2月10日、442部隊の第二大隊はイタリアのレグホーン近くで活動停止となり、カナヤ氏は第100大隊のC「Charlie」小隊に配属された。

 第二次世界大戦後、カナヤ氏はムッソリーニ・アカデミーに勾留している捕虜とイタリア駐屯地のガードに就いた。

 

米国への帰還

 1946年7月2日、カナヤ氏は、480人の日系兵士と19人の将校が乗船したS.S.ウィルソン・ヴィクトリー号の一人となり、イタリアのリボルノから米国本土に帰還した。

 第二次世界大戦の日系退役ヒーロー達はニューヨーク・ハーバーで、2隻のボートが引っ張る「Welcome Home」のバーナーと、ブラスバンドの音楽、大音響のスピーカーで歓迎された。また、海軍の小型軟式飛行船やフォーメーションを組んだ空軍機がハドソンリバーをさかのぼる日系兵士団を護衛した。カナヤ氏は、地元の日系コミュニティが帰還兵士達を暖かく迎えてくれたのを思い出すという。

 1946年7月18日、カナヤ軍曹や他の442部隊の帰還兵は、武器庫から出して配布されたライフルを持ち、ワシントンDCのConstitution Ave.で行われた軍服行進に参加した。また、連邦議会議事堂グラウンドで形式的な軍服チェックが行われ、ハリー・トルーマン大統領が自ら日系帰還兵を歓迎し、442部隊に「the Distinguished Unit Citation(殊勲部隊章)」を授与した。トルーマン大統領は442部隊の功績を称え「You fought not only the enemy, but you fought prejudice and you won.」と述べた。この時の賞は後に「Presidential Unit Citation」と呼ばれている。

 1946年7月18日、カナヤ氏はメリーランドにあるフォート・ジョージG.ミード基地のセパレーション・センターで、名誉除隊した。

 

名誉除隊後

写真左より、イーノック・カナヤ氏、ヤニック・タガンド・フランス総領事、娘のカローラ・ルース・カナヤさん

 その後カナヤ氏はアムンゼン・ジュニア大学とノースウェスタン大学で学び、1950年にアメリカン・テレヴィジョン・インスティテュートを卒業し、テレヴィジョン・テクニシャンとしてアドミラル社に勤め、1987年に定年退職した。

 イーノック・カナヤ氏は1952年4月27日にキャロリン・ユキコさん(旧姓アベ)と結婚し、カローラ・ルースさん、バーバラ・ジャンさん、リタさん、シェリーさんの4人の娘を育てた。

 

最も多くの勲章を受章した、第100歩兵大隊/第442連隊戦闘団

 <第100歩兵大隊/第442連隊戦闘団について>

 ハワイ出身の日系兵士は第100歩兵大隊と名付けられ、米本土出身の日系兵士は第442連隊戦闘団と名付けられた。1943年8月下旬、442部隊よりも先に戦線に派遣された100歩兵隊は、イタリアの数々の激戦地で多くの戦死者を出しながらもドイツ軍を落とし、多大な功績をあげた。補充兵を入れながら戦っていた100歩兵隊だが、モンテ・カッシーノの戦いが終わるまでに、1,300人いた兵士は5か月間で500人となった。

 一方、第442連隊戦闘団は1944年5月1日にヨーロッパ参戦のために米国を出発した。そして、100歩兵隊は同年6月に、442部隊の第一大隊として組み入れられた。だが、第100歩兵大隊は既に多大な戦功をあげていたため、その名前は残された。この様な背景により、しばしば略式で100/442部隊と表記される。

 

米軍史上最多の勲章と名誉

 第100/442連隊戦闘団は、米軍史上最も多くの勲章を受けた部隊として知られている。1943年4月当初4,0000人だった同部隊は、多くの戦死者や負傷者を出しながらも最前線で戦い、2.5回の補充兵を必要とし、総勢10,000人の日系兵士が戦った。

 100/442部隊は戦功により、8つのPresidential Unit Citations(殊勲部隊章)、21のMedals of Honor(名誉勲章)、52のDistinguished Service Cross(殊勲十字勲章)、1つのDistinguished Service Medal(殊勲章)、371のSilver Stars(シルバー・スター章)、22の Legion of Merit Medals(功労勲章)、15のSoldier's Medals(兵士メダル章)、4,000のBronze Stars(ブロンズ・スター章)(プラス1,200のオーク・リーフ・クラスター章)、4,000以上のPurple Hearts(パープル・ハート勲章‐名誉負傷章)を含む18,143の勲章を受章している。

 

 以上に加え、Honorary Texans in appreciation of 442nd’s rescue of the Lost Batalion(テキサス名誉州民号)、米国最高の勲章Congressional Gold Medal(連邦議会ゴールドメダル章)、chevaliers of the French Légion d'Honneur(フランス政府による外国人部隊勲章、シュバリエ章)がある。

 この他、2021年には第二次世界大戦中の日系兵士33,000人の貢献を称え、日系兵士を描いた切手が発売された。

 (勲章に関する数字はウキペディアを参考)

 

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