第6回継承日本語弁論大会、20人が堂々発表  2つの言語、2つの文化を自分のものに

継承日本語弁論大会の出場者たち(写真はすべて在シカゴ総領事館提供)

 第6回継承日本語弁論大会が1月30日にオンラインで開催され、20人が堂々と日本語でスピーチした。

 継承日本語弁論大会は日本語を継承する子ども達や学生達の発表の場として2017年に創設されたもので、在シカゴ総領事館、シカゴ日本商工会議所、シカゴ日米協会、シカゴ姉妹都市インターナショナル大阪委員会が共催している。

 継承弁論大会は小・中学生を対象にした第一カテゴリーと、高校生を対象にした第二カテゴリーに分けて行われる。各々のスピーチの後には審査委員から日本語で質問があり、その答えも評価の対象となる。

 挨拶に立った田島浩志総領事は、イリノイ州、ミネソタ州、ウィスコンシン州から出場した20人の生徒を歓迎し、弁論大会が日本語を継承する生徒達にとってその技能を磨く機会となり、弁論大会が益々盛んになる事を望んでいると話した。

 そして、「日本語継承者は2つの文化、2つの言語を学ぶ特典がある。本日の成果に拘わらず、出場者は今後も日本語学習を続け、日米の本当の架け橋になって欲しい」と出場者を励ました。

 田島総領事は、出場する生徒のために時間やエネルギーを注いで来た先生達や、子供達を勇気付けて来た保護者や家族の労をねぎらい、共同開催者やスポンサー、審査員を務めた教育関係者の協力に感謝の気持ちを述べた。

 出場者は各々の自宅からオンラインで堂々とスピーチし、審査員の質問にも日本語で答えた。弁論大会終了後には、司太鼓のパフォーマンスビデオによるエンターテインメントが行われ、その間に審査員による受賞者の決定が行われた。受賞結果は柴田勉領事/広報文化センター長から発表された。

 グランド・プライズを受賞したミイナ・カサイさん(メティア・ヴァリー高校)のスピーチは「魔法の扉」。

 幼い頃からフィギュアスケートに夢中だったミイナ・カサイさんにとって、アイスリンクに入る瞬間は別世界に続く魔法の扉に飛び込むようだった。音楽が体中に響き、気持ちが自由になれる場所だった。

 1年前のある日、勢いよく地面を蹴って飛んだカサイさんは足に大けがを負った。何もできなくなり悲しみに沈んだカサイさんは、魔法のドアを開けたい一心で、けがをしていない方の足を使ってトレーニングを続け、けがを悪化させてしまった。

グランド・プライズを受賞したミイナ・カサイさん(右下)。田島浩志総領事(左上)とJCCC渉外PR委員長の中尾敦氏(右上)が祝福した

 頑張れば何でも成功できると思っていたカサイさんは、現実に直面することになった。

 しかし、しばらくすると新しい扉が次々と開き始めた。家族と会話を楽しむ時間が増え、スケート以外の事も見えるようになった。

 例えば自分の中には日本人という自分がいる事を思い出し、日本の文化や歴史を学びたい自分を発見した。また、大人になってスケートの世界から離れるのを恐れていた自分にも気が付いた。

 今まで魔法の扉はスケート一つしかないと思っていたカサイさんは、「ケガをして私は様々な魔法の扉を見つけました。この先もどんどん扉を開き進んで行きたい」とスピーチを結んだ。

 第一カテゴリーで第一位に選ばれたレンタロー・リダー君(ミネソタ日本語学校)のスピーチは「手の中から空へ高く」。

1位になったレンタロー・リダーさん

 レンタロー・リダーさんは去年の今頃は折り紙に夢中だった。以後紙飛行機の面白さに気付き、紙飛行機を作っている。

 紙飛行機にはふわっと飛んだり、ダーツの様にピーンと飛んだり、ブーメランのように戻って来るものなどがあり、いろいろな紙飛行機を作る事ができる。また、紙飛行機は速さや飛行距離、滞空時間など、デザインや前後左右のバランスでその性能が違って来る。「僕は紙飛行機がプログラミングや計算でできている科学だと思います」とリダーさんはいう。

 リダーさんが尊敬するのは紙飛行機の飛行距離で記録を持つジョン・コリンズ氏。「どんな小さな紙飛行機も実験そのものだ」というコリンズ氏の言葉を聞いてワクワクするという。

 リダーさんは既に200から300機の紙飛行機を作っており、自らの紙飛行機のデザインも考えている。昨年11月には紙飛行機のデザインコンテストに応募したが、入賞はならず、残念だった。日本には紙飛行機で滞空時間29.2秒のギネス記録を持つ戸田拓夫さんがいる。

 リダーさんは「僕もいつか飛行距離の記録を破りたい、ユーチューブ動画で世界中の人々に紙飛行機の面白さや折り方を教えてあげたい」と語った。

 第二カテゴリーで第一位に選ばれたミュウ・ヴィスコンデさん(シカゴ双葉会補習校高等部)のスピーチは「エイサーと共に」。

 ミュウ・ヴィスコンデさんは5歳の時に幼稚園で、沖縄出身の先生から沖縄の伝統芸能であるエイサーを教わり、現在まで13年間続けている。

ミュウ・ヴィスコンデさん

 当時は内向的で大きな掛け声が出せなかった。今思えば、シカゴで生まれ育った自分をアメリカ人でもアジア人でもないと感じ、内気な性格は自分のアイデンティティを見つける事ができなかったのが一因だと思う。

 だが、エイサーを演じる事で日本の文化を学び、その文化をアメリカで表現する事で、自分の二面性を受け入れる事ができるようになった。

 2016年に「チムドンドン」というパフォーマンス・グループを結成し、ウチナンチューの日を祝うために、シカゴの何千人もの前で、世界エイサー大会会長の平田大一さんと一緒にパフォーマンスした。沖縄で上映されるビデオのためにインタビューも受けた。長くエイサーを続けている理由を訊かれたが、答えは一つではない。「パフォーマー全員の太鼓の音が大きく畝るように響き渡る時、壮大な力が生まれること私は知っています」とヴィスコンデさんはエイサーの魅力を語る。

 13年間を振り返れば、教会の小さな舞台から始まったエイサーの演舞は、リグリーフィールドやミレニアム・パークでのパフォーマンスに進展した。エイサーを通し、ソロよりもチームのメンバーと同じ目標を共有する事の方が大きな感動がある。「これからもチムドンドンと共に成長し、メンバーをけん引して行く人物でいられるように邁進したい」と語った。

 第二カテゴリーでシカゴ新報賞を受賞したコール・ヤナギハラさん(シカゴ双葉会補習校)のスピーチは「僕の先祖」。

シカゴ新報賞のコール・ヤナギハラさん

 8歳の時にハワイのホノルルからシカゴに引っ越して来たコール・ヤナギハラさんは、お弁当に入っているスパムむすびを現地校のクラスメイトに見られるのが嫌だった。ハワイでは学校で日本文化も学び、日常会話には日本語が多く使われていた。ジャンケンポンは英語だと思っていたほどだった。

 当時2年生だったヤナギハラさんは、自らのハワイの日系人文化を捨て去り、早く現地のクラスメイトに馴染めるように必死だった。

 だが、2019年にハワイの祖父が亡くなり、先祖やハワイの日系人の歴史や文化に興味を持ち始めた。

同じくシカゴ新報賞を受賞したエイタ・タビオンさん

 ヤナギハラさんの曽祖父母は山口県周防大島町の沖家室島からホノルルに移住していた。日本人労働者向けの日用品店を営み5女1男をもうけたが、曾祖父は早逝し、曾祖母が女手一つで6人の子供を育てた。

 曾祖父母のようにハワイに移住した日系人は、子孫に良い暮らしを残せるようにと様々な困難を乗り越え、ハワイに日本文化を根付かせ、日系人社会を築き上げた。現在のハワイ州知事は日系三世のデイヴィッド・ユタカ・イゲ氏、ホノルル国際空港の正式名はダニエル・イノウエ空港となった。多くの日系人が偉大な功績を残している。そのハワイの日系人文化を隠そうとした自分が恥ずかしくなった。

 ヤナギハラさんは「曾祖父母の話を聞き、彼らの思いを大切にして次世代に引き継いで行きたい。これからも日系人の文化や歴史を学び、日系人のプライドを持ち続けたい」と語った。ヤナギハラさんはこれから、現地校で各生徒が自らの先祖を調べる授業を取る。

 尚、全受賞結果は英語面をご覧下さい。

2位のリリアナ・クラインシュニッツさん(左)とカナウ・タカハシさん

3位を受賞したリアム・ホーエルさん(左)とリコ・カシノさん

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