インタビュー:日本文化紹介に邁進するセイラ・チャンバース氏に訊く

戦後焼失したジャクソン・パークの鳳凰殿から救出された4枚の欄間のうちの1枚。高村光雲作の鳳凰の彫刻をあしらった欄間は現在シカゴ美術館に所蔵・展示されている

日本文化紹介に邁進する毎日

セイラ・チェンバース氏はジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションのエグゼクティブ・ディレクターやジャパニーズ・カルチャー・センターのディレクターなどを務めている

 花見、月見、生花ウォークなど、日本の伝統文化イベントシーンで必ず見かけるセイラ・チャンバース氏にお話を伺った。

 チャンバース氏はジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションのエグゼクティブ・ディレクター、ジャパニーズ・カルチャー・センターでディレクターを務める他、フェニックス・ガーデン・ファウンデーション理事会のディレクターを務め、過去にはレイクヴュー・イースト商工会議所理事会のメンバーを務めるなど、多くの場面で積極的に活動している。 

Q:日本文化へ興味を持った切っ掛けは?

チェンバース:一言で言うのは難しいですが、小さい頃父と一緒にカウチに座って、「将軍」シリーズを見ていたことがあります。デュポール大学に入ってアート史を専攻しましたが、学位を強化するために日本研究も専攻し、ダブルメジャーにしました。また、いつもセーラームーンのキャラクター達にも興味があって影響を受けましたし、浮世絵や日本の伝統芸術にも興味を持っていました。

 デュポール大学では宮本ゆき先生が私のメンターで、とても親しくなりました。宮本先生と初めて日本に行き、広島と長崎を訪問しました。そして博物館で被爆者のことや原爆について学び、非常に感銘を受けました。この経験後、被爆者の方々の事や核の不拡散について提唱して行かないということは難しい事でした。

 日本からシカゴに戻り、私は平和活動に献身するようになり、広島市立大学や広島平和記念資料館などと関係を続け、いろいろな仕事をしました。2016年には広島に戻り、広島平和記念日の式典に関わりました。これらの活動が、今のシカゴでの私の仕事に強く影響しています。

Q:2016年の10月にジャパニーズ・カルチャー・センターで「広島・長崎原爆展」を開催されましたね。原爆で焼け焦げた瓦や壁、犠牲者の水筒や下駄などの展示に加え、その年の5月に広島を訪問したオバマ大統領や原爆による白血病と闘った佐々木貞子さんの折り鶴も展示されていましたね。

チェンバース:はい。その年に広島平和記念資料館に戻り、シカゴに原爆展を持って来ることができました。その時からジャパニーズ・カルチャー・センターのディレクターとして仕事をすることになりました。

 その前に、2014年から2016年まで、シアトル大学院の修士課程で学びました。シアトルを選んだのは、シカゴより多くの日本人や日系人が住む日本文化コミュニティがあるからでした。

 その修士課程の一環で2015年の9月から2016年の8月まで、シアトルにあるウィング・ルーク・ミュージアム・オブ・ザ・エイジアン・パシフィック・アメリカン・エクスペリエンスで実習することができ、大変興味深い経験をすることができました。

 そのミュージアムにはキューレイターがいません。ですから展示をするコミュニティが企画からガイドまで総てをやるんです。

 その時、カンボジア系アメリカ人のコミュニティが展示会を開きました。彼らは(言語の壁を乗り越えて)展示のためのコミュニケーションを取ることができて、総てを自らの努力でやり遂げました。自分達で説明することで、彼らの生活を経験したことのない人がその人達のために代弁するよりも、ずっと本意が伝わるんです。このミュージアムでの出来事は私の人生に強いインパクトを与えました。

 私はこのキューレイターがいないミュージアムで自分達のストーリーを語る、その人達のコミュニティによって実施される展示会のモデルをテーマに、卒業論文を書きました。

 シアトルに行く前に、2014年の6月から9月まで、私はフィールド・ミュージアムの日本コレクション部門で、人類学に関する収集品保存の仕事にも就いていました。ここでは展示会やキューレイターの仕事とは全く違う経験をしました。

Q:そのような経験を基に非営利団体のジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションを立ち上げたのですか?

チェンバース:そうです。2016年にジャパニーズ・カルチャー・センターに入りましたが、そこは事情があって非営利団体ではありませんでした。ですから同年にジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションを設立しました。

 ジャパニーズ・カルチャー・センターで2年間仕事をし、2018年12月から2020年の12月までシカゴ美術館で仕事に就きました。それは東アジアコレクション、特に日本の収集品の学校教育向けのプログラムや、日本のアートについて教える先生達のために教材を作る仕事に携わりました。また、生徒向けのツアーやプロフェッショナル開発プログラムなどもやりました。

 シカゴ美術館の仕事は、教育コミュニティと繋がる素晴らしい機会でした。その中で最も興味を惹かれたのが、燃えさかる鳳凰殿から救出された(現在はシカゴ美術館に展示されている)4枚の欄間でした。

1893年のシカゴ万国博覧会のため日本政府がジャクソン・パークに建てた鳳凰殿の内部写真。上部に欄間が見える。建物は戦後焼失した

 欄間とその歴史を教材に入れるため、ロバート・カー氏に話を聞きました。欄間に感動していた私は、その歴史に惹き込まれ、鳳凰殿跡地を含むフェニックス・ガーデンの復興開発に貢献したいと思いました。

 シカゴ美術館での仕事を終え、ジャパニーズ・カルチャー・センターに戻った時、私の第一のゴールはフェニックス・ガーデンでした。それがどんなに特別なものか、よく知っていたからです。

Q:それでフェニックス・ガーデンで花見や月見などのイベントを開催されているんですね。

チェンバース:シカゴ・パーク・ディストリクトはとても良いパートナーでした。ジャクソン・パーク内にあるフェニックス・ガーデンの近隣住民の間では、日本のアートや文化部プログラムはもちろんの事、若者や大人向けのアート・プログラムは余り知られておらず、ジャパニーズ・カルチャー・センター地元のレイクヴュー以外の、より広い人々にアセスできる非常に良い機会でした。

 今年の花見には、3時間で6,000人が庭園内に入場しました。これは私達の、シカゴ市南部のコミュニティへの貢献価値を引き上げてくれるものでした。入園者が長い列に並んで待たなくても良いように、ガーデンを拡張することが今のチャレンジとなっています。

 フェニックス・ガーデンでは花見の他、盆フェスティバルや月見、今年は新しく8月6日に灯籠流しもやりました。私は広島の灯籠流しも手伝ったことがあるので、個人的にも大切な行事でした。

1893年当時の鳳凰殿

 昨年、私は宮本先生と日本史のケリー・ロス教授に依頼され、デュポールのクラスで宮本先生と共に教えることになりました。このクラスは核の時代を見据え、心の傷、例えば自己認識喪失や孤立感などを癒やために、どのように芸術を生かせるかを探索するものでした。

 生徒達はプロジェクトで灯籠を作る一方、広島・長崎の原爆投下、日系人強制収容、鳳凰殿など、シカゴにおける日米関係に関する事を話し合い、アーティストがそれらのトピックや経験をどの様に癒しの媒体として創作できるか考え、それを灯籠に表現しました。

 その灯籠は展示され、その後8月にフェニックス・ガーデンの水辺に浮かべられました。この展示会には多くの人々が訪れ、灯籠流しに興味を示しました。ですから来年は一般の人々にも灯籠流しに参加してもらうことになりました。 私達は今、誰もが灯籠を持ってこの意味深いイベントに参加できるように助成金を求めると共に、寄付をして下さる企業や個人の方々を探しています。

 アメリカ人は失った人々への悲しみを癒やすプロセスに、このような素晴らしい日本の伝統があることを知りません。だから灯籠流しはそのような癒やしのシンボルでもあり、辛い時を過ごす人々がコミュニティとして集まる、愛すべき道なんです。

 現在、ジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションでは、高橋真実氏による展覧会「Kintsugi: Healing through Japanese Art(金継ぎ:日本のアートによる癒やし)」を来年3月まで、シカゴ市北部にあるInternational Museum of Surgical Science開催しています。ここでは常時、日本を含む医療の歴史に関する展示が行われています。

Q:セイラさんは日本関係だけでなく地元コミュニティと多くのコネクションを持っておられます。サウスポート通りの生花ウォークはどの様に開催されたのですか?

1893年シカゴ万博会場のジャクソン・パーク。手前に鳳凰殿が見える

チェンバース:以前、レイクヴュー・イースト商工会議所理事会のメンバーだった事があります。なので彼らがどの様に活動しているのか知っていて、私にはアイディアがありました。

 同商工会議所は新型コロナによるパンデミックで客足が遠のいたビジネスを、何とか助けたいと思っていました。

 そこで、商店の店内や窓辺に生花を置いて、それを来店客が見て回るという「生花ウォーク」を提案しました。商工会の人達もそのアイディアを喜んでくれて、毎年成功しています。このようなことを毎年一つはやりたいと思っています。

  生花ウォークは、生花のような禅の芸術の背景にある深い意味を、より広いコミュニティの人々に伝える大変良い機会でした。生花は元来、生と死について語る深遠な意味を表す芸術の形なんです。生花ウォークは生花を学びたいと思っている人々と交流を持つ、かけがえのないイベントとなりました。

 このパンデミックは、私達をクリエイティブに変えました。生花のクラスはオンラインになって、生徒達はどうなることかと心配していました。先生達が傍にいて教えるのが普通ですから。しかし、クラスには今までに無いほど生徒が集まりました。アーカンソー、カナダ、日本など、シカゴに来られない人達もクラスを取ることができたんです。

Q:ジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションの今後の企画を教えて下さい。

チェンバース:12月3日に日本映画シリーズをローガン・シアターで開催します。このイベントのタイトルは「Magical Girl Moment」で、アニメの「Magical Girl/魔法少女」ジャンルの女性たちについて語り合います。このイベントはビームサントリーのパートナーシップで開催され、参加者はハイボールを楽しむことができます。

 このようなイベントを四半期ごとにローガン・シアターで開催したいと思っています。

セイラ・チェンバースさん

 オンラインでやっていた東京ハウス・パーティはもうやっていませんが、2023年にはライブで四半期毎にやることを考えています。

 東京ハウスのメンバーとは親密に仕事をしていますので、いろいろな新しい企画を組むことができます。例えばノースウェスタン大学でゲーム・デザインを教えているダーリック・フィールズ氏がいます。彼は日本をテーマにしたゲームを作るのですが、9月に温泉マスターというゲームをリリースしました。

 他にもシティ・ポップDJのヴァン・ポーガム氏がいます。これらの人々のお陰でジャパニーズ・アーツ・ファウンデーションの活動ができ、より広いコミュニティの人々に参加してもらい、私たちの仕事に関わってもらう事ができるんです。

 これはまだ企画段階ですが、来年には原子力科学者とドゥームズデイ・クロック、核の危機、放射線による人間へのインパクトなどをテーマにした展示会を開こうとしています。 

 フェニックス・ガーデンでは例年通り、花見、子供の日、盆フェスト、灯籠流し、月見を続けます。博物館での展示会やファンドレイジングのガラも継続して行きます。

 

Q:セイラさんは日本に造詣が深く、日米社会両方に多くのコネクションを持ち、両方を繋ぐベストポジションにありますね。

チェンバース:それが私のやりたい事の総てです。

 デュポールの灯籠流しプロジェクトで、生徒達が自分自身についてどう感じているか訊いたことがあります。すると彼ら全員が、どこにも属していないという気持ちを持っていました。しかし、自分が周辺と関わっている事実をよく考えてもらうと、クラスの中でも生徒同士が親近感を感じることが分かりました。これがクラスの最高の経験でした。

 ウィング・ルーク・ミュージアムのカンボジア・コミュニティの人々は、展示物について自分達で話して伝えようとしていました。それが非常に大切だと思うんです。だからこそ人々は展示物に興味を持つし、自分達のことを良く知らない人に代わって説明してもらうのではなくて、彼ら自身が展示会の一部であることが大切なんです。

 こう言ったことが私のやりたいことのヴィジョンだと思います。

Q:ありがとうございました。

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