長崎被爆者派遣団が訴える生涯に亘る原爆の影響
朝長万佐男(ともなが・まさお)氏を団長とする長崎被爆者派遣団が11月14日にシカゴを訪れ、在シカゴ総領事館広報文化センターで「Hibaku-sha: Nagasaki Atomic Bomb Survivors’ Stories and Hopes for the Future(被爆者:長崎原爆生存者の体験談と明日への希望)」と題する講演会が行われた。同派遣団はこの他、ローリー(ノースカロライナ)とポートランド(オレゴン)で講演会を開き、2週間のキャラバン中に多数の学校や団体を訪れ、20の集会を開いた。
被爆一世、二世、三世を含む同派遣団の目的は、核兵器保有国である米国を訪れ、米国の若い世代と直接会話を持ち、核兵器使用によって引き起こされる惨状や非人道性、そして平和の大切さを訴え、核兵器廃絶の重要性に気付いてもらおうというもの。
この2週間に亘るキャラバンは、自らも被爆し、続出する白血病から被爆者を救おうと白血病や骨髄異形成症候群(MDS)の治療や研究を続け、生涯続く放射線の影響について、国際会議の場で繰り返し説き続けて来た朝長万佐男氏により実現した。
長崎には核兵器使用の惨状を知らしめ、核兵器廃絶を推進する複数の団体があり、活動している。だが、今回のキャラバン実施で、初めて日本政府から費用の一部が提供されたという。
今回のシカゴ訪問では、朝長氏を始め、紙芝居で被爆経験を物語る三田村静子氏、被爆しケガを負いながら原爆犠牲者の救護を続けた祖父の永井隆医師のメッセージを伝える被爆者三世の永井徳三郎氏、核兵器廃絶活動を続ける被爆者三世の大学生・山口雪乃氏が講演した。この他、2022年の長崎原爆の日の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた宮田隆氏(83)や長崎県被爆者手帳友の会・2世の会の川端亜希氏も出席した。
朝長万左男氏
朝長万左男氏は長崎県被爆者手帳友の会会長、核兵器廃絶地球市民長崎集会実行委員長、核戦争防止国際医師会議日本代表、恵みの丘長崎原爆ホーム診療所 所長、日赤長崎原爆病院名誉院長、長崎大学 名誉教授など多くのタイトルを持ち、その活動の広さが分かる。また、朝長氏は著書「放射能汚染の基礎知識」を出版している。
朝長氏は2歳の時に爆心地から2.5kmにある自宅で被爆、猛火が迫る中、崩壊した自宅から母に救い出され、九死に一生を得た。曾祖父の代から医者という家に生まれた朝長氏も医者となり、被爆者に続出する白血病に対処する血液内科医として診療し研究を続けて来た。同時に核戦争防止国際医師会議の日本代表として国際的に活動し、核兵器による放射線被爆の後遺症が生涯に亘って持続することを世界に向けて発信して来た。
核戦争防止国際医師会議は1985年にノーベル平和賞を受賞し、その医師会議を母体に若い世代が発足させた国際非政府組織・核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が2017年の核兵器禁止条約採択に重要な役割を果たし、その功績により2017年にノーベル平和賞を受賞した。
朝長氏は講演で「原爆による生涯に亘る健康への影響」について語った。
朝長氏が見せたのは広島と長崎の2つのキノコ雲、川の水を飲もうと群がるやけどを負った多くの人達の絵、猛火が迫る倒壊した家に閉じ込められた娘を救おうと壁に穴を掘る母親の絵などの原爆直後の惨状を表す絵だった。現状を知ることができる原爆が落ちた日の絵は非常に少ないが、後に多くの被爆者の人達が記憶を絵に描いたという。
長崎市北部の90%は破滅的な打撃を受けた。ここは軍事関係地域だったが、医科大学や多くの民家もあった。医科大学では900人の生徒と教授達が死亡した。また、半壊した小学校ではやけどを負った人々が手当てを受けたが、医薬品などが間に合うはずもなかった。多くの人々が死亡し、遺体は小学校のグラウンドで焼かれた。
放射線熱で火傷した人達は数時間でケロイドが形成され、病気になり、死亡した人が多い。高放射線量を浴びた人は腸などの内臓にダメージを受け、水を飲んでも体内に吸収する事ができない状態だった。白血球が低下し、感染する人も多かった。
被爆から10日から14日後に急性放射線症を発症する人が多く、初期症状は脱毛、その後に死亡するのが普通だった。
核爆発により核分裂物質が放出され、ガンマ線や中性子が地上の金属、土、石などに降り注ぐ。一方、空気中に放出された放射性粒子は上昇して雲を形成し中性子を含む放射性粒子が黒い雨となって地上に降り注ぐ。
朝長氏はこのガンマ線と中性子が非常に危険で、道を歩いても二次的な放射線被害を引き起こすという。長崎や広島では原爆後に白血病が急増し、3年から4年後に医師達は地上に降り注いだガンマ線や中性子の影響に気付き始めたという。
爆心地から1.5キロ以内で被爆した人の白血病発症率は非常に高く、発症は15年以上続き、70年後でも発症は起こり続けている。また、子供の発症率は大人の10倍高い。
被爆に関係するがんには甲状腺がん、乳がん、肺がん、大腸がん、胃がんなどがある。また同時に複数のガンを発症することもある。この他、骨髄中の造血幹細胞に異常が起きる骨髄異形成症候群(MDS)もあり、高齢の被爆者の間で増加している。MDSは一般の日本人にも増加しているが、高齢被爆者は3倍から4倍、発症率が高いという。
更に、原爆投下から半世紀後の1995年に行われたWHOの全般的な健康調査を研究した本田純久氏によると、被爆場所が爆心地に近いほど鬱病や心的外傷後ストレス障害に関する値が高かったと報告されている。
最後に朝長氏は、被爆者の証言と願いについて語った。
我々被爆者の証言
1.原爆の放射線は、生存者の生涯に亘って白血病や固形ガンを誘発する。また、心理的な影響は深刻で長く継続する。
2.軍人、民間人を問わず、警告なしの核兵器攻撃をしてはならない。
3.原子爆弾の反人道的局面は、明らかである。
我々被爆者の願い
1.原爆投下から100周年になる2045年の前に、核なき世界を実現する。
2.長崎は人間の歴史の中で、二番目で最後の原爆破壊都市として留まるべきである。
3.被爆者を含む若い世代のアメリカ人と日本人は、世界市民の反核運動を促進するために協力すべきである。
朝長氏は「2016年に広島平和公園を訪れたオバマ大統領は『我々は全世界から核兵器を根絶するために道徳革命が必要だ』と述べました。しかし、世界にはまだ1万を超える核兵器があります。どうぞ皆さん、核なき世界に向かって進んで下さい」と呼び掛けた。
永井徳三郎氏
長崎市永井隆記念館館長と長崎如己の会理事を務める永井徳三郎氏は、白血病を患い原爆で負傷しながらも被害者の治療に当たり、原爆使用の愚かさや平和の尊さを書き綴った祖父・永井隆氏について語った。
永井隆氏は1908年生まれで、1932年に長崎医大を卒業した。その直前に重度の中耳炎により難聴となり、放射線科医になることをあきらめた。
永井氏は1933年に満州事変、1937年には日中戦争に軍医として召集され、生還後には医療分野で仕事に就いた。
特に第二次世界大戦中の日本では結核が流行っており、永井氏は毎日100人以上の結核患者の診察に当たった。これによりレントゲン撮影時の過度な放射線に晒され、1945年6月には慢性骨髄性白血病を発症し、余命3年と宣告された。
前向きだった永井氏は長崎大学病院で仕事を続けていたが、8月9日に原爆投下に遭った。同病院は爆心地から500m程しか離れていない。室内にいた永井氏は調度品もろとも宙に巻き上げられ、床に落ちた永井氏の上に調度品が積み重なった。
永井氏は右の側頭動脈にケガを負ったが、生き残った医者や看護婦、生徒達が集まり被害者の救護に当たった。
永井氏は医師として救護活動を続けていたが、白血病は徐々に進行し、1946年末には寝たきりとなった。しかし、それでも前向きに生きた。「私の手、目、頭はまだ動くのが分かった」と永井氏は本に書き残している。そして、43歳で死亡するまでに17冊の本を書き綴った。
永井氏は本の中に次のような言葉を残している。
「誰が美しい長崎の街を灰の山に変えたのか? 我々だ。我々が愚かな戦争を我々自身で始めたのだ」
「戦争に勝敗はない。破壊があるだけだ。人間は戦うために生まれたのではなく、平和のためだ。永遠なる平和を!」
「互いに許し合おう、完璧な者はいないからだ。互いに愛し合おう、我々は淋しいのだから。喧嘩、闘争、または戦争、いずれにしてもその後に残るのは後悔だ」
「世界平和についての難しい討論を繰り返しても、実際の平和はもたらされない。それができるのはシンプルな愛の力だ」
永井氏は本から得た利益の殆どを長崎市と浦上天主堂の再建に寄付した。また、1,000本の桜の苗木を、花咲く浦上の丘再現のために寄付し、子供のために図書室も作った。
永井隆氏は近づく死を待ちながら、平和の実現について毎日思いを巡らしていた。そして、行き着いたのは「己の如く隣人を愛せよ」という答えだった。
孫の永井徳三郎氏は「我々は受け入れ、許し、互いを支え合う事で、平和な世界を実現できると信じています」と語った。
三田村静子氏
長崎県被爆者手帳の会副会長を務める三田村静子氏は被爆者一世で、被爆経験を紙芝居にして語り継いでいる。自らガンを発症しながら娘もガンで失い、姉と姉の子供達もガンで失った。「あの戦争さえなければ、あの原子爆弾もなかった。原子爆弾さえなかったならば、娘も死ななかった。私には長く続く原爆の恐ろしさを世界の人々に伝える使命がある」と話す。
三田村氏は爆心地から4km離れた所に住んでいた。父母、3人の姉、兄と弟、自分の8人家族だった。
1945年8月9日の朝、急襲警報が鳴り防空壕に入っていた。それが解除され、自宅に戻った家族は縁側で早めの昼食を取った。日頃は芋などの食事だが、その日は珍しく米のご飯だった。
突然にピカッと光り、衝撃を感じた。ご飯の上に白い灰みたいなものが降りかかったが、ご飯を食べ続けていた。三田村氏が3歳8か月の時だった。
その夕方、三田村氏は家の向こうの道を歩いて行く人々を見た。彼らの衣服はところどころが焼け、あちこちから血が流れ、恐ろしい光景だった。原爆が落ちたと知ったのは、ずっと後の事だった。
数日後、三田村氏は下痢と発熱が続き病院に行った。放射線の影響による原爆症の症状だったが、当時は誰もその様な知識はなく薬をもらっただけだった。それから2、3か月で回復した。
病弱だった三田村さんは看護婦になる事を夢見て看護婦となり、結婚し、長女が生まれ、長男が生まれた。幸せな時だったという。
2番目の姉が大腸ガンになったが、手術で助かった。3番目の姉もガンになり39歳で亡くなった。三田村氏も長女が小学3年の時に大腸ガンを発症した。当時はガンは死の病気と言われ、子供の成長を楽しみにしていた三田村氏はショックだったが、手術で助かった。だが、一緒に入院していた人達は、一人、二人と亡くなって行った。
三田村氏はガンを発症するまで、被爆したことを知らなかった。被爆者として謂れのない差別や偏見を恐れた母は、長年原爆について語らなかった。
それから20年後、三田村氏は子宮ガンを発症したが手術で生き延びた。その約10年後の2010年、すでに結婚していた長女が骨盤内ガンと診断され、同年6月に39歳で死亡した。
原爆が落ちた時、縁側で一緒に昼食を食べていた3番目の姉とその娘がガンで死亡し、2番目の姉の娘が死亡し、三田村氏の娘も死亡し、これらの4人はすべて30代の若さで亡くなった。
三田村氏は「私は娘に誓いました。命の続く限り、戦争の愚かさ、残酷さ、平和の尊さ、放射線が人体に及ぼす悪影響の恐ろしさを特に若い人たちに語り伝えて行きます」と語った。
山口雪乃氏
山口雪乃氏は被爆者三世で核兵器廃絶を訴える若き活動家。山口氏の祖父母は被爆者で、祖父は爆心地から1.8kmの所で6歳の時に被爆した。祖父母は原爆のストーリーがあるが、決して公共の場や家族には話さなかった。だが「私は話す、隠さない」と山口氏は言う。
現在山口氏は国際基督大学に在学中で、KNOW NUKES TOKYOや長崎県被爆者手帳友の会のメンバーとして活動している。2022年6月にウィーンで開催された核兵器禁止条約第1回締約国会議に市民社会から参加し、約50か国の若者と被爆者が対話するワークショップのコーディネイターを務めたり、同会期中に開催されたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)主催のフォーラムや核兵器の非人道性に関する国際会議にも参加した。
高校時代には活水高校の平和研究クラブに入り、2017年から2018年までユース・ピース・アンバサダーを務めた。その間、山口氏は高校生署名運動で1万人の署名を集めた。
現在メンバーとして活動しているKNOW NUKES TOKYOでは、東京都選出議員を対象に「議員面会プロジェクト」を実施している。山口氏は長崎県選出議員に対して同プロジェクトを推進し、被爆地で核兵器禁止条約に対する議論を喚起する事などを目標に活動している。
KNOW NUKES TOKYOの活動目的は以下の通り。
1.No Nukes:私たちは核のない世界を目指す。
2.Know Nukes:ヒバクの今を共に学ぶ。
3.Know New:社会課題の解決に誰もが新たな一歩を踏み出せる社会にする。
特に若い世代が核兵器廃絶の重要性に関心を持つように会話する機会をつくり、核廃絶の実現にアプローチする。
Q&Aセッション
Q&Aセッションでは5つの質問が出た。
1.Q:なぜ長崎は原爆被災地として広島ほど知られていないのか?
A:朝長氏によると、長崎が2番目の被爆地であることからインパクトが弱い事が一つ。1954年に米国がマーシャル諸島で水爆実験を実施し第五福竜丸の乗組員23人が被爆した折に、広島では世界に向けて激しい抗議行動を起こしたが、長崎では静かに平和を祈った。こういった地域性の違いがある。しかし、世界では長崎への原爆投下は良く知られていると朝長氏は語った。
2.Q:世界の国々は核兵器廃絶についてどの様な活動ができるのか?
A:朝長氏によると、2017年に核兵器禁止条約が世界122ヵ国の同意を得て採択され、2021年には50か国以上が批准し、発効した。批准国は2023年1月10日現在で93ヵ国となり、多くの国々が核兵器使用に反対している。
3.Q:日本政府はどの様にサポートしているのか?
A:朝長氏によると、日本は核兵器禁止条約採択に参加しなかった。これは同盟国アメリカの立場に理解を示したもの。日本政府は、核なき世界を作ろうという同派遣団はサポートしている。しかし、今の段階では核兵器禁止条約に署名することはできず、将来に核なき世界の時代が来れば、日本もアメリカもその時の条約に署名するだろうという考えを示している。
4.Q:なぜ被爆者に対する差別があるのか?
A:原爆投下から約10年の間、被爆者に対する偏見や差別はしばしば見られた。恐らく結婚相手を決める時に被爆した配偶者の健康を懸念したことが理由だと思われる。しかし、10年が経つうちに偏見や差別は消えて行ったと朝長氏は話す。
山口氏は、被爆者に汚名を着せて差別するのは、差別する人たちの無知から来るものだと話した。山口氏は「その様な差別に直面したことは一度もない」と話す一方、海外の国々では自分のアイデンティティである被爆三世という事を自己紹介に入れるが、日本では自らを被爆三世だと紹介することはないと話す。そこには被爆者に対し社会的な烙印を押したりバイアスを掛けたりする感情が日本人にあるからだという。
新報も加筆したい。確かに福島第一原発事故の折にも、COVID-19によるパンデミックの時にも、その様な感情が日本で多く見られた。
5.Q:日系人が核廃絶にどう関われるか?
A:山口氏は、核兵器製造に関わる企業には投資しないで欲しい、我々の組織を支援して欲しいと呼び掛けた。