大型クリスマス特集:真珠湾攻撃へのカウントダウン、グルー米大使と外交の真実
真珠湾攻撃までの10年間、日米戦争の回避に尽力し続けた駐日米国大使ジョセフ・C・グルーについての本「Our Man in Tokyo: An American Ambassador and the Countdown to Pearl Harbor」が今年11月に出版された。その著者スティーブ・ケンパー氏を招き、オンライン講演会「An American Ambassador in Prewar Japan: The Countdown to Pearl Harbor(戦前の駐日米国大使:真珠湾攻撃へのカウントダウン)」が12月5日、スミソニアン・アソシエイツの主催で開催された。
グルー大使は1932年に当時のハーバート・フーヴァー大統領に指名され、外交で最も難しいと言われた駐日米国大使として、激動の日本に赴任した。そして真珠湾攻撃前夜まで戦争回避のための交渉を続けた。
著者のケンパー氏はグルー大使が残した日記や書類などを詳細に研究し、知られざる日米間の外交の真実を明らかにした。
グルー氏の略歴
ジョセフ・C・グルー氏は1880年にボストンで生まれた。富裕層の子女が通うグラットン・スクール、ベイツ大学、ハーバード大学で学び、卒業後は日本、中国、インドなどアジアを旅行した。
外交官となったグルー氏はカイロ、メキシコシティ、セント・ピーターズバーグ、ウィーン、ベルリンに派遣され、ベルリンでは第一次世界大戦中に米国大使館を閉じた。ヴェルサイユ平和委員会や米国務省の任務に就き、デンマーク、スイス、トルコで大使を務めた実績を持つ。また、トルコに派遣される前には米国務省長官補佐官を務めた。約40年のキャリアの中で14のポストに就いた。
動乱期の日本とグルー大使(1932-1941)
1931年、南満州鉄道を保護していた日本の関東軍が9月の鉄道爆破事件を機に、日本政府の許可を得ずに満州を占拠した。
これに懸念を示したフーヴァー大統領が、適任者としてグルー氏を駐日米国大使として日本へ送ったのだとケンパー氏は言う。
グルー大使が日本に降り立った1932年6月、日本はまさに混乱の最中にあった。政界は混乱し、陰謀、乱闘、暗殺が横行し、「煮えくり返る釜のようだった」とケンパー氏は表現する。
日本へ向かうグルー大使が立ち寄ったシカゴで見た新聞の見出しは、日本の「五・一五事件」だった。同年5月15日に起きた反乱事件で、海軍の青年将校達が内閣総理大臣官邸に乱入し、軍事拡大を支持しないという理由で犬養毅総理大臣を殺害し、天皇のため、大日本帝国のためだと主張した。
ケンパー氏によると、当時の天皇は神の子孫とされ、それがために完全無欠であるべきだった。その完全無欠性を保つために、天皇が自ら決裁を下すことはなかった。また、国民の決裁による間違いについて、天皇が責任を負う事はなかった。これは日本特有の制度で、天皇は日本の頂点であり、最高司令官であり、精神的指導者であり、総てのパワーを持っていたが、事実上のパワーはなかった。
日本政府はプロシアや英国の議会制を取り入れていた。軍部は政府の外に置かれていたが、陸軍大臣と海軍大臣を指名することはできた。このため内閣の方針に反対し陸軍か海軍大臣が辞職すれば内閣が瓦解するという事が繰り返された。
グルー大使は約10年に亘る任期中に17人の外務大臣と、12人の首相と外交を行う事になり、ケンパー氏は政治的混乱だと呼ぶ。
日本はペリー来航による開国以来60年という短期間のうちに世界有数のパワーとなった。第一次世界大戦でロシアや中国に勝利し、同盟国の勝利に寄与し、国際連盟主要国のテーブルに就いたが、戦勝国としての利権を取れない侮辱を受けていた。移住の自由を拒否され、米国は1924年に排日移民法またはアジア人排斥法を施行した。
一方、貿易や文化における日米関係は堅調だった。日本の輸出の40%は米国向けで、日本の輸入の30%は米国から来るものだった。また、英国、フランス、オランダとの貿易も大きな割合を占めていた。
当時の日本は言うなれば、近代化と伝統のミックス、神性の天皇と議会のミックスだった。
芸者に見られるように洗練された伝統芸能があり、歌舞伎に見られるような侍や武士道があった。
また、アメリカ文化も広がり、ダンスホール、アメリカ音楽、映画、娯楽ショーが人気を呼んだ。英語も生活の中に入って行った。
野球も日本全国で人気のスポーツとなった。グルー大使もハーバード大学と帝国大学の試合で始球式でキャッチャーを務めた。当時、ハーバード大学を卒業した日本人が多かったのだという。
アメリカのオールスターズが来日した時には17ゲームのチケットが完売し、ベイブ・ルースが銀座のパレードに出た時には10万人が沿道に集まった。
また、ゴルフの愛好者も増えた。ゴルフ好きのグルー大使は週に2回はゴルフを楽しんだという。グルー大使にとってゴルフは外交の手段でもあった。
グルー大使の仕事
グルー大使は多くの実力者を大使館公邸に招き、惜しげなく接待し、会話の中から情報を集めた。大使は米国に大量のアルコール飲料を年に数回注文していたが、まだ禁酒法が施行されていたため、総てはグルー大使の自費だった。
米政府は日本を満州から撤退させる指示をグルー大使に出していたが、それは保留していた。彼には東アジアの経済と安定における日本の立場を考慮して交渉する思いがあった。
大使というイメージを絵にかいたようなグルー大使は日本で人気を博し、タイムマガジンの表紙にも掲載され、米国でも有名な大使となった。
西洋文化を謳歌する政治舞台の東京で、西洋文化を堕落の根源とする国粋主義者の一派が多くの警察官、軍人、政治家を巻き込み、日本と西洋との関係を弱体化させていた。
グルー大使着任から4年足らずの1936年2月26日、二・二六事件が勃発した。皇道派の陸軍青年将校らが1500名近くの下士官や兵を率いて、首相官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
この時、岡田啓介首相と誤認された義弟の松尾伝蔵海軍大佐、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。
叛乱将校らは下士官兵を原隊に帰還させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし彼らの主張が聞き入れられることはなく、岡田内閣は総辞職し挙国一致の廣田内閣が発足、思想犯保護観察法を成立させ、クーデターを目指す勢力は陸軍内から一掃された。
しかし、対立する政党を含む廣田内閣(1936年3月9日-1937年2月2日)は暗礁に乗り上げ1年足らずで解散、林内閣(1937年2月2日-1937年6月4日)は4か月で解散し、第1次近衛内閣(1937年6月4日-1939年1月5日)が発足した。
近衛文麿首相は皇族の子孫で、ケンパー氏によると「首相になるために育てられており、ゴルフする人だった」という。
グルー大使は近衛首相と互いの家で夕食をとりあった。近衛氏の息子はプリンストン大学のゴルフチームに属しており、近衛氏は西洋の考え方を受け入れているようだった。だが、近衛氏は右派や軍の影響を受けており、その方向に進み始めていた。
近衛内閣発足から1か月後の7月7日、日本軍と中国軍の小競り合い「盧溝橋事件」が起きた。これが日中戦争の発端となった。
日中戦争へ
日中は現地で停戦を成立させ不拡大声明を出していたが、これを好機ととらえた強硬派に押された近衛内閣は動員を決定し、戦線を次第に拡大させた。
動員した日本政府はすぐに軍のコントロールを失った。日本軍は町々を爆撃し市民を殺害した。2人の兵士が200振りの日本刀で250人の中国市民を殺害しようと競い、各々100人を殺害したのは明らかだという。このような残虐行為は日本軍が北京に近づいた1937年12月にクライマックスに達した。これは20世紀最大の残虐行為と言われ、犠牲者数は見方によって異なるが、50人から20万人が惨殺され、少なくとも20人の女性が年齢に拘わらず強姦された。
緊張する日米関係
日本軍が南京を占領した1937年12月、西側諸国は中国から商業利益を得ており、米国も利益を守るために中国に入っていた。
南京から27マイル上流の揚子江上にあった米国のガンボート・パナイ号が日本軍の戦闘機による爆撃を受けた。当時の日米関係は平和状態で、パナイ号は星条旗をマストに掲げデッキにも星条旗を描いていた。また、パナイ号の位置も日本側に報告していた。それにも拘わらす、日本軍はボートを空爆し、葦の茂みに身を隠した米国人達を殺害した。
グルー大使は戦争の始まりだと考え、身辺の整理を始めた。数人のアメリカ人が殺害され、日本政府は愕然とさせられた。日本政府は犯人を刑に処し、再発を防止と賠償を誓ったが、その後数年は約束不履行を続けた。
日本軍は日本にある米国の病院、教会、学校など星条旗が掲揚されている場所には所かまわず爆撃した。そしていつも事故だと主張し謝るだけだった。
グルー大使は抗議のために被害を受けた米国の施設をリストアップし、内閣が変わるたびに新任の外務大臣にそのリストを渡した。1940年頃には爆撃、攻撃、所有物の押収など被害を受けた米国施設は300を超えた。
グルー大使と米政府
グルー大使は1939年5月に休暇を取り、米国に戻った。まずルーズベルト大統領に会いに行った。グルー氏は2級上だったがルーズベルト大統領と同じグラットン・スクールやハーバード大学で学んでおり、それ程親しくはないが、ジョー、フランクと呼び合う仲だった。
ケンパー氏によると、グルー大使はルーズベルト氏が大統領選に勝利した1932年の日記に、ルーズベルト大統領の器量の大小は分からないと書いているという。しかしグルー氏はルーズベルト大統領の任期中を通して称賛しており、ルーズベルト氏もグルー氏を3回連続で駐日米国大使に指名している事から、互いの器量を認め合っていたとみられる。
グルー氏は同じく称賛するコーデル・ハル国務長官にも会った。しかしハル氏の高い道義心や柔軟性の欠如は、後のグルー氏にとって問題となった。またハル国務長官の極東に関するトップ・アドバイザーのスタンリー・ホーンベック氏にも会った。彼はグルー氏の敵対者となり、中国に肩を持つ一方、日本に対しては完全に不信感を持ち、日米間の交渉には全く耳を貸そうとしなかった。
第二次世界大戦勃発、悪化する日米関係
1939年9月にグルー大使が日本に戻った時には、多くの変化が起きていた。日本は約束を破って中国で爆撃を続けていた。その結果として米国は1939年7月に日米通商航海条約の破棄を勧告し、同条約は1940年1月に失効した。
1939年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻し 第二次世界大戦が勃発した。
ナチス・ドイツの初期の低地帯諸国への勝利を見た日本は、極東アジアを掌握する絶好の好機と見たと、グルー大使は書いているという。東南アジアのインドシナや東インド諸島に植民地を持つフランスやオランダが、ドイツに敗れたからだ。英国もドイツ戦に苦戦中だった。
日本は1940年7月に中国への軍事物資補給ルートを遮断するため、フランス新政権と協定を結び、フランス領のインドシナ北部に進駐し、中国への攻撃を強めた。
米国の日米通商航海条約破棄後、日本はオランダにそれまでの3倍の石油輸出を要求した。また英国には、中国の上海に軍事物資を供給するビルマ・ルートを絶つよう求めた。
1940年9月には日独伊三国同盟が調印され、アメリカは同年10月に対抗処置として屑鉄の対日禁輸を実施した。更に制裁処置は強化され、対日石油輸出を全面的に禁止した。これは日本にとって大打撃だった。
日本軍はヒットラーを称賛し、日本は連合国と戦う枢軸国となる事を望んだ。当時、まんじとヒットラーは東京で非常な人気だった。しかし、日本政府は枢軸国への加盟を避けていた。
軍部の支援により近衛文麿氏が首相に復帰し、1940年7月に第二次近衛内閣(1940年7月22日-1941年7月18日)が発足した。仮装パーティでの近衛氏のコスチュームは、ヒットラーだった。就任1か月後に近衛氏は日本を枢軸国に参加させたが、まだドイツ軍への関与は薄かった。
近衛首相が入閣させた2人の人物は、陸軍大臣・東條英機と、グルー大使の悩みの種となる外務大臣・松岡洋右だった。
グルー大使の悩みの種、松岡洋右
松岡洋右は父の事業失敗により貧困となったが、13歳でアメリカに留学した。9年の在米中の殆どをオレゴンで過ごし、オレゴン大学で多くの学位を取得した。また、キリスト教に改宗した。
ある時、松岡氏はグルー大使にレクチャーを行い、喋りまくった。グルー氏によるとその時間の90%は松岡氏が話しており、グルー氏は閉口した様子だった。
松岡氏は、もしもルーズベルト大統領が自分と会談してくれるならば、自分こそが平和をもたらすことができる偉大な男だと思っていた。「私は何でも解決できる」とグルー氏に話したという。その様な松岡氏を、精神に障害があると思っている人達もあったという。
松岡氏は1941年の春にヒットラーを訪問した。その時にヒットラーは、ドイツが英国に侵攻すると同時に、日本が香港とシンガポールに侵攻するという日本の確約を欲していた。
松岡氏はそれについての保証は与えず、帰り道にモスクワに立ち寄り日ソ中立条約をスターリンと交わした。当時日本は北方側面を護り、東南アジアに進出する計画があるからだった。
真珠湾攻撃へのカウントダウン
グルー大使は1941年1月27日付の電報で米国務省宛てに、日本が大規模な真珠湾急襲を計画しているとの情報を複数の情報源から得たと報告した。
グルー氏自身もばかげた話だと思ったほどで、米国務省も米軍も全くありそうにないと解釈した。しかし、山本五十六連合艦隊司令長官は、この2か月前に計画に着手していた。
日本はヒットラーの成功のように、東南アジアへの軍事拡大のかじ取りを担っているとと感じていた。松岡氏は事実上、危険なホットスポットだった。第二次世界大戦に参戦するか、東南アジアへのアクセスに加担するかを米国に判断を迫っていた。「加担しなければ我々は米国を除外する」と畳みかけていた。日本はドイツから情報を得ていたため、既に英国はヒットラーに負かされていると確信していた。
日本はその時点で、満州国を手に入れ、中国北部、南京、香港、フランス領インドシナを占拠していた。この大きな勝利は栄光とは言えず、日本は石油をはじめ、金属から食料、衣類まで、総ての物資が不足していた。また、監視体制も強まっていた。
日本軍のプロパガンダは平和のための戦争であり、苦境にあっても日本国民は軍に触れ込まれたファンタジーがいつかはやって来ると信じていた。
監視体制が強まる中で、米国人ジャーナリスト達も渦中に巻き込まれていた。ジェイムズ・ヤングのように命拾いした者もあれば、不審死する者もあった。
1941年6月にドイツがソ連に侵攻し、これによって日ソ中立条約は反故となった。グルー大使は日本が枢軸国から離れ、西側との関係に戻るチャンスになる可能性があると見たが、日本は南インドシナへの侵攻を続けた。
同年8月末から9月初旬にかけて、もう一つのチャンスが訪れた。
世界の戦況を見た近衛首相は、日本が日中戦争を大きく上回るような戦争に突入する可能性に気付き、戦争をとめる策についてルーズベルト大統領との秘密会談を持ちたいと、その実現をグルー大使に依頼した。それまで、日本の首相が海外に出た事はなかった。
グルー氏はこれを非常に真剣に受け止め、実現のために努力を惜しまなかった。グルー氏は国務省に秘密会談を実現するよう要請した。ルーズベルト大統領は同意したが、ハル国務長官は反対した。更にホーンベック氏が加わり、非常に多くの前提条件を持ち出したために、近衛氏の要望は最終的に握りつぶされた。
しかし、前提条件は日本で審議されていた。グルー氏は連日外務省を訪れ、審議の行方を尋ねたが、答えはいつも「分からない」だった。
一方、日本は9月下旬に連絡会議を開き、米国との交渉は続けるが、進展がなければ戦争に向かうと決定した。
この決定が近衛首相辞任の切っ掛けとなった。
1941年10月に東條英機陸軍大将が首相となり東郷茂徳が外務大臣となった。天皇の日米戦争回避意向を組み、東條首相は戦争開始を延期し、膠着や延期の道を探そうとしていた。
一方、ハル国務長官は解読された日本の外交暗号を読んでいた。東京とワシントンのみならず、世界中で交信される日本の外交暗号は米国の手中にあった。ゆえにハル長官は日本の平和と戦争という双腕政策を見透かしていた。
だが、グルー大使はその事は知らず、ハル国務長官との交渉を続けていた。
珠湾攻撃前夜、ルーズベルト大統領はグルー大使を通じて平和を推奨する電報を天皇に送った。「あなたは軍艦を動かし、軍隊を輸送し、我々両国が非常に後悔するような事を計画しているようだ。それを止めようではありませんか」という内容だった。
この電報は軍の電信オフィスで10時間留め置かれた。そのことが違いを生むわけではないが、それは遅すぎた。しかし、グルー大使はそれを知る由もなく、真珠湾攻撃前夜の午前零時に外務省オフィスに電報を届けた。
翌朝早くグルー氏は東郷外務大臣の緊急呼び出しを受けた。
グルー氏はルーズベルト大統領の電報に対する天皇の答えが出たものと思い、東郷氏のもとに急行した。しかし、東郷氏が手渡した紙には「交渉を終了する」と書いてあった。楽観的なグルー氏は「まぁ数日のうちにまた交渉を始めるだろう」と思い、帰宅してゴルフに行く支度をした。そこで耳に飛び込んで来たニュースや民衆の叫び声は、日本の戦争宣言と真珠湾攻撃だった。
真珠湾攻撃により2,403人が死亡、2,000人が負傷、18戦艦と188戦闘機が破壊され、太平洋艦隊は壊滅した。
その後のグルー大使
グルー大使と大使館員は大使館内に6か月にわたり捕虜として拘留された。その間グルー氏は260ページにのぼる報告書を書き、帰途に就く船の中でルーズベルト大統領宛てに13ページのカバーレターを書いた。
帰国するとすぐにハル国務長官に会い、報告書を提出した。報告書を一瞥したハル長官は怒り、報告書を投げ返すと、コピーを含め総てを廃棄するよう指示した。
グルー氏は指示通りに廃棄したが、ハーバード大学に保管された別バージョンの報告書は、133ページを削除されたものの保存されている。また、ルーズベルト大統領宛てに書いた13ページのカバーレターはそのまま残った。
ハル長官に提出した報告書は廃棄したが、グルー氏は多くの経験や考えを書類にして残しており、その他にも日記、手紙、数千に及ぶ国務省への公式文書、10年に及ぶ日本の騒乱期についての回顧録や最終レポートなど、多くの書類が残されている。
ケンパー氏は「グルー氏は10年に亘る世界動乱史のレンズだった。彼こそが東京在住の我々の人だった」と講演を結んだ。