ミッドウェスト刀剣会「刀装具と刀ショー」
収集家が語る日本刀の魅力と芸術性
ミッドウェスト刀剣会の“刀装具と刀ショー”が4月28日から30日までの3日間、シャンバーグにあるハイアット・リージェンシー・ウッドフィールドで開催された。日本刀を始め、鍔や目抜きなどの刀装具、鎧兜、骨董美術品などを展示・売買するテーブルが会場いっぱいに並び、日本刀や侍に関する物に魅せられたアメリカ人達が全米から集まった。
ミッドウェスト刀剣会のショーは2005年に再開され、2013年からマーク・ジョーンズ氏がマネージャーとなって開催している。参加者は収集だけでなく日本刀を研究し保存を目的とする人達が多く、毎年日本刀剣保存会から鑑定士を招き審査が行われている。
マネージャーのマーク・ジョーンズ氏は「今年のフォーカスは審査。日本から4人の専門家が来ている。
彼らは日本刀の作者の名前の有無、作られた時期、本物かどうか、刀の状態などを審査し、日本語による
鑑定証を出してくれる」と説明する。
ジョーンズ氏は一般的なアンティークの日本刀を主に扱っており、展示品は新刀(安土桃山時代後期から
江戸時代中期)や新々刀(江戸時代中期から明治初期)が主。中には柄に三つ葉葵の紋がある小刀もあった。
また、根付や縁頭、目貫、鍔は1600年代から1800年代のものだという。
ボビー・ブロック氏 インタビュー
今回は幾多の賞を受賞しているジャーナリストのボビー・ブロック氏にお話を伺った。主要紙の記者として40年のキャリアを持つブロック氏は、そのうちの20年以上に亘りルワンダやボスニアなどの紛争地に入り、現地取材を続けて来た。また、ウォール・ストリート・ジャーナルが9/11の報道で、2002年にブレイキング・ニュース部門のプリツカー賞を受賞した際にはチームのスタッフ・レポーターでもあった。特派員として派遣された土地はラテン・アメリカ、中央アジア、東欧、中東、アフリカと世界をまたぐ。現在もフロリダで報道活動を続けており、人権団体「フロリダ・ファースト・アメンダメント・ファウンデーション」のエグゼクティブ・ディレクターも務める。また「Disaster: Hurricane Katrina and the Failure of Homeland Security」の共同著者でもある。
このような報道活動の中で、ブロック氏が研究と保存に情熱を注いで来たのが日本刀だった。
ブロック氏は「殆どのアメリカ人は日本刀が芸術品であることを理解しない。彼らは武器としか思わず、戦後の日本占領時にはマッカーサーらが刀を押収して海に捨てたり地面に埋めたりした」と話す。
「日本刀は神聖な品物であり、精神的な品物であり、ただの武器よりもっと意味深い。これは私の考えだが、このような刀ショーは収集家の楽しみだけでなく、刀が道具をはるかに越える意味ある物である事を説明する機会を提供してくれるものだと思う」と話す。
収集を始めた頃、日本刀について教えてくれたのは日本人ディーラーの鶴田一成氏だった。ブロック氏は日本に行き、鶴田氏の自宅や店で多くの時間を過ごした。鶴田氏がブロック氏に、前世は日本人だったのではないかと言うほど、ブロック氏は刀の世界に惹き付けられた。「刀は詩そのものだ。私は刀を生産物と見る事はない。私にとって刀は、汗と試行錯誤でより良いものを創り出そうとするイメージとして見ている。それが芸術であり詩の世界だ。刀を生産物と見る人達は、刀のすべての価値を打ち捨ててしまっている」とブロック氏は日本刀に対する熱い思いを語る。
日本刀との出会い
ブロック氏は母が病弱だったため、祖母に育てられた。祖母は日本の芸術品と日本食が大好きで、1960年代から1970年代にかけて何度か日本を訪問していた。そして家の壁には日本の芸術作品がたくさん飾ってあった。「祖母の日本好きが私に影響したのは間違いないですね」とブロック氏は語る。
ブロック氏が初めて外国に出たのはロンドンだった。住まい近くには浮世絵を売る店がいくつかあった。ある日一軒の店に行くと、カウンターの上に脇差と拵(刀の外装)が置かれていた。売物かと店主に訊ねると、店主は「刀工の名前はないが、優れ物かも知れない」と売り渡した。
当時ブロック氏は25歳。その時から約40年、日本刀収集という生涯の趣味が始まった。
求め易い新刀や新々刀の収集から始め、古刀(平安時代末期~1595年)の収集に移った。現在は大名などが帯刀した刀を主に集めている。
ブロック氏は収集した一振りの小刀を記者に見せてくれた。それは美濃で戦国時代最高の刀工と呼ばれた孫六兼元の作によるもので、豊臣秀吉が帯刀していたものだという。
ブロック氏は「このこの刀は重要な人物のために作られたのは明らかで、この刀は戦国時代に繋がっている。これは一片の詩であり、見る人を歴史や著名人に繋げてくれるものだ。この刀を見る時、幾人の著名人がこの刀を見て研究しただろうかと思う。そして幾人の人がこの刀を家宝とし、子孫から子孫へと伝えて行っただろうかと思う」と語った。
ブロック氏の収集は根付やコマイ・プレート、陶磁器も含む。祖母が集めていた根付やコマイ・プレートにある繊細な彫刻に、子供の頃から魅せられていたという。
ちなみにコマイ・プレートとは、明治9年の廃刀令後、鍔職人たちが生活のために日本の伝説や著名人を金属プレートに彫り込んだもので、土産物や輸出品として大人気となった。
ブロック氏は日本刀だけでなく根付やその他の美術品が展示販売されるのが中西部刀剣会の刀ショーの良いところだという。
だが、日本の若い世代が日本刀などをありがたく思わないように、米国の若い世代にも同様の傾向があるとブロック氏は憂慮する。
かつてフロリダには2つのショーがあった。しかし、運営者らが老齢により他界し開催できなくなっていた。この6月には若い世代を取り込むために生花、盆栽、日本料理などを取り入れ、日本文化を祝う刀ショーを再開するのだという。
一方、「面白い事に、日本で一番熱狂的な刀の収集家は10代の女の子達だ」とブロック氏はアニメの事までよく知っている。刀がハンサムな若者の姿になって現れるアニメ「刀剣乱舞」の人気で、女の子たちが刀を買っているのだという。
研究が紐解く真実
ブロック氏が収集を始めた40年前、刀や刀装品について英語で書かれた本は殆どなかった。今や多くの日本語の本が英訳され、それらを集めた図書館の利用もできるのだという。ミッドウェスト刀剣会の刀ショーでもそれらの書籍が紹介・販売されている。
ブロック氏はさっそく、10cm以上の厚みがある「肥後金工大艦」を購入していた。それは鍔に特化したもので、写真だけでなく作者や周辺の人々、製作時代、特徴や形に表現された意味などを理解することができるのだという。
日本人でも刀に彫り込まれた漢字を理解できる人は少ない。ブロック氏によると、英語版の本が出回った事や日本語を研究した日本人以外の研究家によって、新しい事実が発見されているという。
例えば、村正(むらまさ)は1500年代早期に現れた著名な刀工だが、村正の師匠や弟子は誰だったのか、またどの様に村正というブランドを洗練して行ったのかについては、日本の研究家の間に緒論があった。オーストリア在住のマーカス・セスコーという学者がそれらについて研究し、謎を解き明かしたという。
セスコー氏は日本国立国会図書館に保存されているデジタル化された巻物にオンラインでアクセスし、村正の時代に東海道を通過した刀工達の関所の記録を調べた。500年前の記録は良く保存されていたという。
セスコー氏はそれらの記録から、刀工の長吉が背中に道具を背負い、若い刀工の正真(まさざね)と共に京都から離れた村々を渡り歩いていたことを発見した。記録には長吉が刀を作るために或る町の刀工の家に行き、その家に滞在して共に刀を作り、刀作りの情報を交換し、その後はまた次の場所に旅すると記されていた。そして、長吉と正真が滞在した刀工の家が村正の家だった。
このような記録から、長吉と正真は18ヵ月間村正の家に留まり、情報を交換しながら刀を作っていた。セスコー氏の研究により、この時点で村正は師匠を持たず、弟子もいなかった事が明らかとなった。この一片の情報を発見できたのは、セスコー氏の日本刀への愛情のたま物だとブロック氏は絶賛する。
「3人の刀工が同時代に共に仕事をし、技術を分かち合っていたことを我々は突然に知ることになった。ただ本の中にある名前でないことが分かって、彼らの存在に息が吹き込まれたんですよ。彼らは刀を作ってお金を得て旅をし、彼らにできる事を示そうとしていたんですよ」とブロック氏は遠くを見つめる。
「我々は時々数百年前に生きていた人々の事を考える。その生活は我々とは非常に異なり、人々は旅やお金のことを心配し、関所の役人たちとも上手くやらなければならなかった。これらの事を直に知る事で、私の趣味が生きていると感じる。それは詩の中の出来事のようで、また歴史でもある」と語った。
代々伝わる刀の行方
ある侍の子孫の家に一振りの刀が代々受け継がれて来た。その家の末裔は女性で、受け継いだ刀を持ちたがらなかった。刀の持ち主としての登録手続きも煩わしいようだった。その女性は刀の拵(外装部)だけを所有し、刀の部分だけを売りたいと望んでいた。
ディーラーを通じてその話を聞いたブロック氏は、その刀を買いたいと申し出た。だがその女性は、海外の人には売りたくない様子だった。
ブロック氏は自らについて、刀の価値に深い理解を持ち、日本文化や歴史に敬服し、刀を保存している収集家だと伝え、その女性を説得した。
この刀の由来はその女性の家に詳細に伝えられていた。女性の先祖は江戸時代の播磨国姫路藩内の一国の領主だった。その領主は洪水から村々を救った褒美として、藩主酒井忠績(さかい・ただしげ)から国正の刀を授かった。その刀は今、海を越えアメリカ人のブロック氏が継承している。
ブロック氏にとって、その刀を購入したことは喜びだったが、酒井忠績からその家に授けられた刀が、もうその家に引き継がれない事に一抹の寂しさを感じた。同時にその刀を良い状態で保存する事で、代々その刀を引き継いで来た家に敬意を示すことにプレッシャーも感じた。保存するのは刀の収集家としての責任だとフロック氏は言う。「このショーに来ている人たちは皆、同じ思いで刀を見ている。我々の仕事は向こう500年を見据えて刀を保護し、子孫に引き継いで行くことだ」と語る。
現在ブロック氏は姫路藩の侍の刀の他、4本の貴重な刀を所有し保存に努めている。それらは1300年代の貞宗、廣光、長谷部国重、金重だという。
刀の真価から学ぶ自らの人生
ブロック氏は刀の収集の他、居合道や盆栽など日本に関する趣味は広い。日本は既に何度も訪れ、今年の11月にも日本へ行く予定で、京都で見る紅葉が楽しみだという。
ブロック氏は「他の文化を学ぶことによって、我々は自らを更に学ぶことができ、何かを理解することができると本当に思っている。だから日本の文化を学ぶことは刀の真価を認識するだけでなく、世界の中での自分の立ち位置を認識する事ことでもある」と話す。
京都の通りのウィンドウ越しに見る職人たちの仕事を見るのが好きだというブロック氏は「仕事の大小に拘わらず、どんなに小さな部分でも同じレベルの気配りが行われるべきだ。それが日本の物に芸術性を与えている。どんなに小さい所にも神経が行き届いているのに圧倒される。そのことが良い例だ。どんな事にもあらゆる点に注意を傾ける事を私の人生に生かして行きたい」と語った。
クリス・ボーエン氏と審査
日本から日本刀剣保存会の審査員をミッドウェスト刀剣会の刀ショーに案内して来るクリス・ボーエン氏にお話を伺った。
同氏によると、刀ショー開催中の3日間で、400から500本の刀の鑑定依頼があるという。「刀は古く日本の伝統的な工芸品であり芸術品ですから、刀の所有者は刀を芸術品として将来の世代の人達がその真価を認識できるように保存したいのです」とボーエン氏は話す。
日本語を話すボーエン氏はこの20年で8回から9回の審査を実現させた。近年は毎回実施されており、審査はショーにやって来る人たちにとって重要なイベントになっている。
日本刀保存会は非営利団体で、明治時代に設立された。審査員が刀剣を精査し、彫り込まれた作者名に偽りはないか、また無銘の場合は時代や作者を推定し鑑定書を発行している。審査員は海外にも出て、刀の美術品としての価値や歴史的価値、保存法などの教育に当たっているという。
クリス・ボーエン氏 インタビュー
Q:刀に興味を持った切っ掛けは?
ボーエン:12、13歳の時に毎週日曜日のテレビシリーズで椿三十郎や七人の侍などのチャンバラ映画をやっていました。その番組は1961年から1966年まで駐日米国大使を務めたエドウィン・O・ライシャワー氏が主催していました。
それを見ていた母が一緒に見ようと言うのですが、白黒だし、耳慣れない音楽が鳴っているので、断り続けていました。
数週間後に断れなくなって母と一緒に見たのですが、15分もしないうちに釘付けになりました。
ある日スーパーの店先でガレージセールのようなものをやっていました。その中に日本の刀の写真があって、売り物と書いてありました。それで父にお金をもらって買いました。
刀の柄を外すと日本語の文字がありました。私は好奇心で一杯になり、何と書いてあるのか知りたくて、あちこちのミュージアムや大学行って調べましたが分かりませんでした。日本の人に見てもらいましたが、分かりませんでした。
ウィスコンシン大学マディソン校に日本人の仏教の教授がいました。その人は剣道の先生でもあり、その教授が読んでくれました。ウメモトという刀工の作である事や刀工の在所、製作年などが分かりました。その教授から殆どの刀にはそういった情報が彫り込んであると聞き、非常に刀に興味を持ちました。それから刀の研究と収集が始まりました。たった13歳の時です。
大学を出てから働くようになりましたが、結局1989年に日本に引っ越しました。刀についてもっと学びたかったからです。
幸いにも日本の大学で職を得ましたので、余暇に刀の研究をすることができました。もう30年以上前の事ですが、そうした研究の中で日本刀保存会の人々に会い、ずっと連絡を取り合っていました。だからこの4、5年は私が審査員の方々を日本に迎えに行って、ショーに来てもらっています。
Q:そうでしたか。今のお仕事は?
ボーエン:もう引退していますから、もっぱら日本刀の研究と自然を楽しんでいます。ウィスコンシン州の西側のミシシッピ川の近くの森の中に住んでいます。
Q:ありがとうございました。